ど、今一足進み申して、上戸と下戸との区別を問おうには、はたと当惑いたし申す。手真似にて問うべき仕方はござらぬ。しばしば、飲む真似をいたして、上戸の態《さま》を示し申しても、相手にはとんと通じ申さぬ。さればじゃ、多く飲みても、酒を好まざる人あり、少なく飲みても好む人あり、形だけにては上戸下戸の区別は、とんとつき申さぬ。かように、情《じょう》の上のことは、いかように手真似を尽くしても、問うべき仕方はござらぬ」
「なるほどな。ごもっともでござる」
玄白も、相手の返事の道理を、頷かずにはおられなかった。
玄白が、首肯するのを見ると、西はやや得意に語りつづけた。
「オランダの言葉の、むつかしき例《ためし》には、かようなこともござる。アーンテレッケンと申す言葉がござる。好き嗜むという言葉でござるが、われら、通辞の家に生れ、幼少の折より、この言葉を覚え、幾度となく使い申したが、その言葉の意《こころ》は、一向悟り申さなんだところ、年五十に及んで、こんどの道中にてやっと会得いたしてござる。アーンは、元という意《こころ》でござる。テレッケンとは、引くという意《こころ》でござる。アーンテレッケンとは、向うのものを手元へ引きたいと思う意でござる。酒を好むとは、酒を手元へ引きたいという意でござる。故郷をアーンテレッケンするとは、故郷を手元へ引き寄せたいほど、懐しむという意でござる。かように、一つの言葉にても、むつかしきものにござれば、われらのごとき、幼少よりオランダ人に朝夕|親炙《しんしゃ》いたしおる者にても、なかなか会得いたしかねてござる。いわんや、江戸などにおわしては、所詮叶わぬことでござる。ご存じでもござろう。野呂玄丈殿、青木文蔵殿など、御用にて年々当旅宿へお越しなされ、一方ならず御出精なされても、はかばかしゅう御合点も参らぬようでござる。其許《そこもと》も、さような思召立《おぼしめしだて》は、必ず御無用になされた方がよろしかろう」
西は、自分自身も、とっくに諦めきっているようにいった。
「なるほど、道理でござる」
玄白も、そう答えるほかはなかった。相手がしきりに止めるものを、強いて学習の方法などをきくわけにもいかなかった。
「なるほど、大通辞の御辺が、さように思うておらるることを、われらがいかように思い立っても、及ばぬことでござる。所詮は、思い切るほかはござらぬ」
玄白が、何気なくそういった時だった。今まで黙って、西と玄白との問答をきいていた良沢が、急に口を挟んだ。
「いや、御両所のお言葉ではござるが、われらの存ずる子細は別じゃ。およそ、紅毛人とは申せ、同じ人間の作った文字書籍が、同じ人間に会得できぬという道理は、さらさらござらぬわ。われらが平生読み書きいたしおる漢字漢語も、またわれら士大夫が実践いたしおる孔孟の教えも、伝来の初めには、只今のオランダの文字同様一切不通のものであったに相違ござらぬわ。それを、われらの遠つ祖《おや》どもが、刻苦いたして、一語半語ずつ理解いたして参ったに相違ござらぬ。遠つ祖どもの苦心があればこそ、二千年この方、幾百億の人々が、その余沢に潤うてござるのじゃ。良沢の志は、そこでござる。われらは、この後に来《きた》る者のためには、彫心|鏤骨《るこつ》の苦しみも、厭い申さぬ覚悟でござる。杉田氏も、お志をお捨てなされないで、お始めなされい。われらは、今年四十九でござるが、倒れるまで、努めてみるつもりでござる」
玄白は、良沢の志をきいて、心から恥じずにはおられなかった。その雄渾な志をきいて、心から恥じずにはおられなかった。彼はこれを自分に対するありがたい忠言だと思わずにはおられなかった。が、彼はあまりに触れられたくない急所に、相手が唐突《だしぬけ》に触れてきたことに、かなりな不快を感ぜずにはおられなかった。こっちが、半分は挨拶かたがたいっていることに、なんの容赦もなく、真剣に向ってきた相手に、ある不快を感ぜずにはおられなかったのである。
二
玄白が、蘭書ターヘルアナトミアを手に入れたのは、それから五日とは経たない頃だった。
玄白の志は、元来オランダ流の医術にあった。彼が蘭語を学びたく思ったのも、それによって療術方薬に関する蘭書を読破したいためであった。
従って、彼はターヘルアナトミアを、ある内通辞から示されると、彼は驚喜の目を瞠《みは》らずにはおられなかった。濃い赤と青とで彩られた、臓腑骨節の精緻な絵図を見ると、彼はそこに人体についてのすべての秘奥が、解き明かされてあるように思われた。その絵図と絵図との間に走っている、模様のようなオランダの文字は、一字も半字も読めなかったけれども、彼の心は激しい好奇と感激とにみたされずにはいなかった。彼は、心の底からそれに垂涎《すいぜん》した。価は、二十
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