前野氏へも、なんとかいたして知らせたいものでござる」
そういったとき、玄白は自分自身、救われたような明るい気持になった。
「おお前野氏がいる! 前野氏のことを、とんと失念いたしていた。前野氏へは、是非一報いたさいで叶わぬことじゃ」
玄適が、すぐそれに応じた。が、他の者はあまり気が乗っているようでもなかった。淳庵はいいわけのようにいった。
「前野氏にも、知らせとうはござるが、前野氏の麹町の住居までは、よほどの道程でござる。もう、初更も過ぎているほどに、知らすべき便《たより》はござらぬ。前野氏には、この次の機《おり》もござろう」
玄白は、もう黙っていようかと思った。自分の心持だけは、これで済んでいる。前野を、是非とも明日の企てに与《あずか》らせねばならぬほどの義理も責任もないと思っていた。が、彼は自分の心の底に、良沢の来ないことを欣ぶような心が潜んでいることに気づいているだけに、そのまま黙っているのが疚《やま》しかった。
「いや知らすべき便《たより》がないとは、限り申さぬ。本石町の木戸|際《ぎわ》には、さだめし辻籠がいることでござろう。手紙を調《しつら》え、辻籠の者に置き捨てにいたさすれば、念がとどかぬことはござるまい」
玄白の考えは、時にとって名案だった。
「それは、天晴《あっぱれ》のお心付きじゃ」
一座の者は、皆それに賛成した。玄適が、すぐ手紙を書きにかかった。
玄白は、自分で良沢を呼びながら、一方それを悔いている心持が動いていないこともなかった。が、ふと自分の持っているターヘルアナトミアのことを考えると、また別な心持が動いた。彼は、その珍書を皆の前で披露するときの、得意な心持を考えた。ことに良沢の前で――いつもそれとなく気圧されているように思う良沢の前で、ターヘルアナトミアを開いて見せる自分の心持を考えてみた。
彼は、やっぱり良沢を呼んで、いいことをしたと思った。
四
三月四日の朝、玄白は寅の二つに近い頃、新大橋の藩邸を出て、浅草橋から蔵前を通って、広小路に出て、馬道から山谷町の出口の茶屋に着いたのは、春の引き明けの薄紫の空に、浅草寺《せんそうじ》の明け六つの鐘が、こうこうと鳴り渡っている頃であった。
茶屋の座敷に上って見ると、もう玄適と良沢とが、朝寒《あささむ》の部屋に火鉢を囲いながら向い合っていた。
麹町平河町に住んでいる良沢が、自分より先へ来ているのを見ると、玄白は心中少なからずおどろかずにはおられなかった。
良沢は、玄白が入ってくるのを見ると、いつになく丁寧に会釈した。
「杉田氏! 昨夜は、貴所《きしょ》の肝煎りで使いを下さったそうで、ありがたく存じおる。お陰で、かような会いがたき企てに与《あずか》り申して、大慶に存じおるところでござる」
そう、真正面から感謝されると、玄白は自分の今までの良沢に対する心持を、心のうちでやや恥しく思わずにはおられなかった。
玄適が、横から口を挟んだ。
「杉田氏! 前野氏は、昨夜から一睡もなされないそうでござる。使いの者が参ったのが、子《ね》に近い頃で、お宅を出られたのが、丑二つ頃じゃと申す。その間《ま》も今日の企てのことを思われると、心が躍るようで、一睡もなされなんだそうでござる」
玄白は、良沢の執心が自分以上に激しいことを知ると、どんな点でも良沢には及ばないといったような、寂しさを感ぜずにはおられなかった。
が、そうした寂しさも、自分が懐中しているターヘルアナトミアのことを考えると、すぐ慰められた。今日の参会にこの珍書を持っている者は自分一人だと思うと、良沢に対するそうした寂しさもすぐ消えてしまった。
そのうちに淳庵が見えた。小半刻ばかり経つ頃に、春泰と良円とが、連れ立ってやってきた。六人の顔が揃うと、打ち連れ立って骨ヶ原に向った。
春の早朝の微風に顔を吹かせながら、六人は興奮してよく喋った。六人とも、中年を越した者ばかりであったけれども、彼らの心持は、期待のために躍っていた。六人の歩調が、いつの間にか早くなっていた。小男の淳庵が、ともすれば遅れがちであった。
玄白は、いつターヘルアナトミアを取り出して、皆に披露しようかと思っていた。彼は、さっき山谷町の茶屋で披露しようと思いながら、ついその時機を得なかった。
骨ヶ原の刑場に近づくと、街道に面した梟木《きょうぼく》の上に、刑死して間もないような老婆の首がかけられていた。その胴体が、今日腑分せられるのだと気がつくと、六人はちょっと不快な感じを懐かずにはおられなかった。
非人|頭《がしら》が、六人を刑場の入口にある与力詰所へ案内した。腑分の準備が整うまで、六人はそこで待たなければならぬのだった。
玄白は、今こそと思いながら、懐《ふところ》のターヘルアナトミアに手をかけようと
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