六
約のごとく、その翌日を初めとし、四人は平河町の良沢の家に、月五、六回ずつ相会した。
良沢を除いた三人は、オランダ文字の二十五字さえ、最初は定かには覚えていなかった。
良沢は、三人の人々に、蘭語の手ほどきをした。彼は、さすがに長崎に留学したことがあるだけに、多少の蘭語と、章句語脈のことも、少しは心得ていたけれども、それもほとんどいうに足りなかった。一月ばかり経つと、良沢が三人に教えることは、もう何も残っていなかった。
三人の手ほどきが済むと、四人は初めて、ターヘルアナトミアの書に向った。
が、開巻第一のページから、ただ茫洋として、艫舵《ろだ》なき船の大洋に乗出《のりいだ》せしがごとく、どこから手のつけようもなく、あきれにあきれているほかはなかった。
が、二、三枚めくったところに、仰《あおむ》けに伏した人体全象の図があった。彼らは考えた。人体内景のことは知りがたいが、表部外象のことは、その名所もいちいち知っていることであるから、図における符号と説の中の符号とを、合せ考えることがいちばん取りつきやすいことだと思った。
彼らは、眉、口、唇、耳、腹、股、踵などについている符号を、文章の中に探した。そして、眉、口、唇などの言葉を一つ一つ覚えていった。
が、そうした単語だけはわかっても、前後の文句は、彼らの乏しい力では一向に解しかねた。一句一章を、春の長き一日、考えあかしても、彷彿として明らめられないことがしばしばあった。四人が、二日の間考えぬいて、やっと解いたのは「眉トハ目ノ上ニ生ジタル毛ナリ」という一句だったりした。四人は、そのたわいもない文句に哄笑しながらも、銘々嬉し涙が目のうちに滲んでくるのを感ぜずにはおられなかった。
眉から目と下って鼻のところへ来たときに、四人は、鼻とはフルヘッヘンドせしものなりという一句に、突き当ってしまっていた。
むろん、完全な辞書はなかった。ただ、良沢が、長崎から持ち帰った小冊に、フルヘッヘンドの訳注があった。それは、「木の枝を断ちたるあと、フルヘッヘンドをなし、庭を掃除すれば、その塵土|聚《あつま》りて、フルヘッヘンドをなす」という文句だった。
四人は、その訳注を、引き合しても、容易には解しかねた。
「フルヘッヘンド! フルヘッヘンド!」
四人は、折々その言葉を口ずさみながら、巳の刻から申《さ
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