る》の刻まで考えぬいた。四人は目を見合せたまま、一語も交えずに考えぬいた。申の刻を過ぎた頃に、玄白が躍り上るようにして、その膝頭を叩いた。
「解《げ》せ申した。解《げ》せ申した。方々、かようでござる。木の枝を断ち申したるあと、癒え申せば堆《たか》くなるでござろう。塵土|聚《あつま》れば、これも堆《たか》くなるでござろう。されば、鼻は面中にありて、堆起するものでござれば、フルヘッヘンドは、堆《たか》しということでござろうぞ」といった。
四人は、手を打って欣びあった。玄白の目には涙が光った。彼の欣びは、連城の玉を獲《と》るよりも勝《まさ》っていた。
が、神経《シンネン》などという言葉に至っては、一月考え続けても解らなかった。
彼らは、最初難解の言葉に接するごとに、丸に十文字を引いて印とした。それを轡《くつわ》十文字と呼んでいた。初め一年の間、どのページにもとのページにも、轡十文字が無数に散在した。
が、彼らの先駆者としての勇猛精神は、すべてを征服せずにはいなかった。一カ月六、七回の定日を怠りなく守った甲斐はあった。一年余を過ぎた頃には、訳語の数も増え、章句の脈も明らかに、書中の轡十文字は、残り少なくかき消されていた。
先駆者としての苦闘は、やがて先駆者のみが知る欣びで酬われていた。語句の末が明らかになるに従って、次第に蔗《さとうきび》を食らうがごとく、そのうちに含まれた先人未知の真理の甘味が、彼らの心に浸みついていた。
彼らは、邦人未到の学問の沃土に彼らのみ足を踏み入れ得る欣びで、会集の期日ごとに、児女子の祭見に行く心地にて、夜の明くるのを待ちかねるほどになっていた。
七
玄白が、最初良沢に対して懐《いだ》いていた軽い反感などは、もう跡形もなかった。彼は良沢の人となりとその篤学に、心から尊敬を払っていた。
が、翻訳の業が進んでいくのに従って、玄白は、だんだん自分の志と良沢のそれとが離れているのに気がついた。
玄白の志は、ターヘルアナトミアを一日も早く翻訳して、治療の実用に立て、世の医家の発明の種にすることだった。彼は、心のうちで思っていた。漢学が日本へ伝来して大成するまでには、数代、数十代の努力を要している。それと同じように、蘭学の大成も、数代を要するに違いないと思っていた。彼は、そうした一代に期しがたい大業を志すよりも、一事一
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