老屠が、出刃を持つ手を止めると、良沢は、初めてわれに返ったように叫んだ。
「至極じゃ。至極じゃ。蘭書の絵図と、寸分の違いもござらぬ。和漢千載の諸説は、みな取るに足らぬ妄説と定《さだ》まり申した。医術はもはやオランダに止めを刺し申した」
「至極じゃ。至極じゃ!」
皆は、良沢の感激に声を合せた。
刑場からの帰途、春泰と良円とは、一足遅れたため、良沢と玄適と淳庵、玄白の四人|連《づれ》であった。四人は同じ感激に浸っていた。それは、玄妙不思議なオランダの医術に対する賛嘆の心であった。
刑場から六、七町の間、皆は黙々として銘々自分自身の感激に浸っていたが、浅草|田圃《たんぼ》に差しかかると、淳庵が感に堪えたようにいった。
「今日の実験、ただただ驚き入るのほかはないことでござる。かほどのことを、これまで心づかずに打ち過したかと思えば、この上もなき恥辱に存ずる。われわれ医をもって主君主君に仕えるものが、その術の基本とも申すべき人体の真形をも心得ず、今日まで一日一日とその業を務め申したかと思えば、面目もないことでござる。何とぞ、今日の実験に基づき、おおよそにも身体の真理をわきまえて医をいたせば、医をもって天地間に身を立つる申しわけにもなることでござる」
良沢も玄白も玄適も、淳庵の述懐に同感せずにはおられなかった。玄白は、その後をうけていった。
「いかにも、もっともの仰せじゃ。それにつけても拙者は、如何にもいたして、このターヘルアナトミアの一巻を翻訳いたしたいものじゃと存ずる。これだに翻訳いたし申せば、身体内外のこと、身明《しんみょう》を得て、今日以後療治の上にも大益あることと存ずる」
良沢も、心から打ち解けていた。
「いや、杉田氏の仰せ、もっともでござる。実は、拙者も年来蘭書読みたき宿題でござったが、志を同じゅうする良友もなく、慨《なげ》き思うのみにて、日を過してござる。もし、各々方が、志を合せて下されば何よりの幸いじゃ。幸い、先年長崎留学の砌《みぎり》、蘭語少々は記憶いたしてござるほどに、それを種といたし、共々このターヘルアナトミアを読みかかろうではござらぬか」と、いった。
玄白も、淳庵も、玄適も、手を打ってそれに同じた。彼らは、異常な感激で結び合された。
「しからば、善はいそげと申す。明日より拙宅へお越しなされい!」
良沢は、その大きい目を輝かしながらいった。
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