した。
が、それと同時に、良沢が思い出したように、右手に持っていた風呂敷包みを解きながらいった。
「さよう! さよう! 各々方に御披露するものがござった。先年長崎へ参った折、求め帰って家蔵いたしおるオランダ解剖の書でござるが……」
そういいながら、彼は風呂敷包みの中から、取り出した一本を、皆の前に指し示した。
玄適が、好奇の目を輝かしながら、それを受け取った。五人の目が、一斉にそれに注がれた。が、玄白は一目見ると、自分の目を疑わずにはおられなかった。それは、自分が懐中しているターヘルアナトミアと、寸分|違《たが》わぬ同版同刻の書であった。
彼は、茫然として語がなかった。良沢に対して主張し得ると思っていた彼の最後の拠りどころは、脆くも踏みにじられてしまったのであった。が、玄白は、懐中している自分の本を出さないわけにもいかなかった。
「前野氏は、かねてから御所持でござったか。実は、拙者もこのほど、一本を求め申してござる」
玄白は何気ないように披露した。が、彼が昨夜から楽しみにしていた披露する折の得意さ、晴れがましさなどは微塵も感じられなかった。韮を噛むような気持であった。
が、良沢は、それを見ると、心からおどろいたらしかった。彼は玄白の差し出した本を取り上げながら、表紙や扉を打ち返して見た。
「これは紛れもなく同本じゃ。不思議な奇遇でござる。奇遇でござる」
そういいながら、良沢は幾度も手を打った。良沢の態度は、天空のごとく開豁《かいかつ》だった。
「貴所と某《それがし》とが、期せずしてターヘルアナトミアを所持いたしおるなど、これはオランダ医術が開くべき吉瑞とも申すべきでござる」
良沢は、そう語をつづけて哄笑した。彼は、書中の一図を玄白に指し示しながらいった。
「御覧なされい! これが、ロングと申し肺でござる。これがハルトと申し心でござる。これはマーグと申し胃でござる。これはミルトと申し脾《ひ》でござる。医経《いきょう》に申す、五臓六腑、肺の六葉、両|耳肝《じかん》の左三葉、右四葉などの説とは、似ても似ぬことでござる。今日こそ、漢説が正しいか、オランダの絵図が正しいか、試すべき時期でござる」
良沢の顔は、究理に対する興奮で輝いていた。玄白も、良沢の高朗な熱烈な気持に接していると、自分の心のうちの妙なこだわり[#「こだわり」に傍点]などは、いつの間にか忘れ
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