でいる良沢が、自分より先へ来ているのを見ると、玄白は心中少なからずおどろかずにはおられなかった。
良沢は、玄白が入ってくるのを見ると、いつになく丁寧に会釈した。
「杉田氏! 昨夜は、貴所《きしょ》の肝煎りで使いを下さったそうで、ありがたく存じおる。お陰で、かような会いがたき企てに与《あずか》り申して、大慶に存じおるところでござる」
そう、真正面から感謝されると、玄白は自分の今までの良沢に対する心持を、心のうちでやや恥しく思わずにはおられなかった。
玄適が、横から口を挟んだ。
「杉田氏! 前野氏は、昨夜から一睡もなされないそうでござる。使いの者が参ったのが、子《ね》に近い頃で、お宅を出られたのが、丑二つ頃じゃと申す。その間《ま》も今日の企てのことを思われると、心が躍るようで、一睡もなされなんだそうでござる」
玄白は、良沢の執心が自分以上に激しいことを知ると、どんな点でも良沢には及ばないといったような、寂しさを感ぜずにはおられなかった。
が、そうした寂しさも、自分が懐中しているターヘルアナトミアのことを考えると、すぐ慰められた。今日の参会にこの珍書を持っている者は自分一人だと思うと、良沢に対するそうした寂しさもすぐ消えてしまった。
そのうちに淳庵が見えた。小半刻ばかり経つ頃に、春泰と良円とが、連れ立ってやってきた。六人の顔が揃うと、打ち連れ立って骨ヶ原に向った。
春の早朝の微風に顔を吹かせながら、六人は興奮してよく喋った。六人とも、中年を越した者ばかりであったけれども、彼らの心持は、期待のために躍っていた。六人の歩調が、いつの間にか早くなっていた。小男の淳庵が、ともすれば遅れがちであった。
玄白は、いつターヘルアナトミアを取り出して、皆に披露しようかと思っていた。彼は、さっき山谷町の茶屋で披露しようと思いながら、ついその時機を得なかった。
骨ヶ原の刑場に近づくと、街道に面した梟木《きょうぼく》の上に、刑死して間もないような老婆の首がかけられていた。その胴体が、今日腑分せられるのだと気がつくと、六人はちょっと不快な感じを懐かずにはおられなかった。
非人|頭《がしら》が、六人を刑場の入口にある与力詰所へ案内した。腑分の準備が整うまで、六人はそこで待たなければならぬのだった。
玄白は、今こそと思いながら、懐《ふところ》のターヘルアナトミアに手をかけようと
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