のためじゃ。武士たる各々方が、一旦、恭順を表せられた以上、万に一つ間違いはないと思ったからじゃ。それを、盗人か何かのように、夜中ひそかに脱走する……」
「いわれな!」市左衛門は、中途で激しく遮《さえぎ》った。「それほど、われわれを武士として扱うといわるる貴殿が、あの図は何事じゃ。われわれは町人百姓ではござらぬぞ。朝廷の御処置が決ったら、いつにても首を差し伸べる覚悟はいたしてござる。それをあの指図は何事じゃ。貴殿こそ、われわれを盗人か無宿者同様に心得てござる。あれが、武士を遇する道か。あれが、武士に対する寛大の取扱いか」
 市左衛門の目は血走った。もし、彼が帯刀を許されていたならば、彼の手はきっと、その柄頭《つかがしら》を握りしめたに違いない。
 市左衛門に指さされて、鳥取藩の隊長は、墓地を越えて、板塀の方を見た。彼の目にも、黒い板塀とはっきりした対照をなしてぬっと突き出ている獄門の首台が、目に映った。それを一瞥したときに、彼は明らかに狼狽した。
「やあ! これはこれは、いかい不念じゃ。許されい、許されい」
 詫びようとする隊長を押えて、市左衛門は勝ち誇ったようにいった。
「われわれは武士でござる。あのように御親切に悟されいでも、腹を切る覚悟は、平生からいたしてござる。今日か、ただしは明日か、時刻をさえ知らして下されば、それでたくさんじゃ」
 市左衛門の憤慨を頷きながらきいていた隊長は、彼の言葉の終るのを待って態度を改めた。
「それはとんでもないお考え違いじゃ。拙者の不念から、部下のもののいたした粗相じゃ。各々方にあのような不吉なものを見せて、なんとも申しわけがござらぬ。お気に止められるな。各々方を処刑、そのような御沙汰は気もないことじゃ。いや、昨夜も本営へ参ってきいた噂によれば、桑名藩の方は、主従ともなんのお咎《とが》めもなかろうとのことじゃ。あの獄門台でござるか……」
 そういって、彼は次のように話をした。
 ちょうど、有栖川宮の先発たる橋本少将、柳原侍従が、錦旗を擁して伊勢へ入ったと同時に、近江から美濃へ入った官軍の別働隊があった。彼らは、赤報隊と称して、錦の御旗を先頭に立て、二百人に近い同勢が、鎮撫使の万里小路《までのこうじ》侍従を取り囲んでいた。彼らの多くは、陣羽織に野袴を穿いて旧式の六匁銃などを持っていたが、右の肩口には、いずれも錦の布片《きれ》を付けてい
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