た。彼らは、美濃に入ってから、所在に農兵を募った。美濃の今尾、竹越伊予守の城下に達したときは、同勢七百人に近かった。小藩の今尾では、不意の官軍におどろいて、家老が城下の入口まで出迎えた。彼らは今尾藩へ三千両、城下の町人に二千両の軍用金を命じて、一旦、悠々と軍隊を休めてから、南に下って、大垣の南八里の高須藩へ殺到した。
 高須の、松平|中務大輔《なかつかさたゆう》の藩中も、錦旗の前には、目が眩んでしまった。赤報隊は、そこでも一万両に近い軍用金を集めた。今尾高須の二藩を慴服《しょうふく》させた赤報隊は、意気揚々として、桑名藩へ殺到しようとして、桑名城の南、安永村に進んで、青雲寺という寺に本営を敷いた。その夜である。鳥取藩と芸州藩の諸隊が、この青雲寺を取り囲んだのは。錦の布片《きれ》を付けた同士が、激しく戦った。ここまで付いて来た農兵隊は、蜘蛛の子を散らすように逃亡した。偽《にせ》の万里小路侍従は、流弾に斃《たお》れた。その場で殺された者が、五十人に近かった。捕われたものが十七人。それが明朝、海蔵川原の刑場で斬られるというのである。そのうちで、偽の万里小路侍従と他の四人の首とが梟首せられるというのであった。
「獄門台は、右のような次第で作らせたものでござる。地上においては、調練の邪魔になるほどに、あのような粗相をいたしたのでござろう。不念の段は、拙者から幾重にもお詫びいたす。許されい、許されい。これはとんでもない粗相じゃった、はははははは。が、間違いで、めでたいめでたい」
 きいているうちに、桑名藩の人々の相好が崩れていた。隊長の語り終った頃には、それが湧き立つような哄笑に変っていた。彼らは、腹を抱えて笑いながらも、目にはいっぱいの涙を湛えていた。

          六

 その誤解は、うちとけた哄笑で済んでしまったけれど、鳥取藩士の格之介に対する追及は、それでは済まなかった。彼らは藩の面目にかかわる一大事だから、どうあっても探し出すと揚言した。東海道筋には、官軍が満ち満ちている故に、江戸へ下り得るはずはない、近在に潜んでいるに違いないとあって、十人、二十人、隊を組んで、鳥取藩士は四日市、桑名、名古屋を中心に、美濃、伊勢、尾張の三国の村々在々を隈なく捜索した。その中の一隊は、員弁《いなべ》川に添うて濃州街道を美濃の方へ探して行った。
 桑名の西北六里、濃州街道に添うて
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