どれだけいいことかわからなかった。京都に来て、彼らとまったく違った境遇におれば、彼らに取り残された場合にも言い訳はいくらでもある。また、京都に来たために、文壇に出る機会が、かえって早められるかも知れぬ見込みが、朧げながらあった。それは中田博士が、京都の文科の教授であることであった。博士は、もうよほど、文壇の中心から離れている。がそれでも文壇の一部とはある種の関係がある。博士の知遇を得さえすれば、案外早く文壇に紹介されて、俺の天分をあくまで軽蔑している山野などを、あっといわせてやることも、決して不可能でない。俺が、京都へ来た理由は、そういう点にもいくらかある。
十月一日。
なんとなく落着けない。ことに夕暮れが来るとそうだ。青い絨毯《じゅうたん》を敷き詰めたように、広がっている比叡《ひえい》の山腹が、灰色に蒼茫と暮れ初《そ》むる頃になると、俺はいても立っても、堪らないような淋しさにとらわれる。俺は自分で、孤独を求めてきた。が、その孤独は、すぐ俺を反噬《はんぜい》し始めた。しかも、俺の孤独の淋しさの裏には、激しい焦躁の心が潜んでいる。東京にいる山野や桑田などが一日一日どんなに成長しているかを考えると、俺は一刻もじっとしてはおられないという気がする。俺が、研究室でバーナード・ショーの全集を漁《あさ》っているうちに、桑田はかねがね書くといっていた三幕物の社会劇を、もうとっくに書き上げているかも知れない。俺が、教室でくだらないノートを作っている間に、山野はもう半分以上訳了していたハウプトマンの「織工《おりこう》」の出版書店を、見つけたかも知れない。そう思うと、俺はいよいよ堪らない気がする。今年中に、山野と桑田とは、文壇にともかくも、一個の足溜《あしだまり》を築くかも知れない。俺はもう決してじっとしておられないのだ。
俺は、彼らに対抗するために、戯曲「夜の脅威」を書いている。が、俺の頭は高等学校時代のでたらめの生活のために、まったく消耗しきっている。この戯曲の主題《テーマ》には、少し自信がある。が、俺のペンから出てくる台詞《せりふ》は月並みの文句ばかりだ。中学時代に、自分ながら誇っていた想像の富贍《ふせん》なことなどは、もう俺の頭の中には、跡形もなくなっている。が、ともかくこの脚本を書き上げる。脚本ができ上ったら、中田先生を訪問することにしよう。先生の好意で、俺の前途は案外明るいものになるかも知れないから。
俺は今日偶然、吉野辰三君に会った。高等学校では、俺より一年上で、やっぱり京都の文科に来ているんだ。吉野君と話してみると、文壇に出ようと※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》いている者は、決して俺一人でないことを知って少しは安心した。吉野辰三! 以前、俺はあの人をどんなに崇拝したか分からない。明治四十年頃の「文学世界」の読者にとって、あの人の名はどんなに輝き、どんなに魅力を持っていただろう。田山花袋選の懸賞小説に幾度も投書して、成功しなかった俺は、吉野君の華やかな活躍ぶりをどんなに羨望したかわからなかった。
が、天才とまで激賞された吉野君は、その後「文学世界」の投書をよしてから、もう何年になるかも知れないが、杳《よう》として文壇に名を現す所がない。文学志望を廃したのかといえば、そうでもない。現に文科にいて、文壇に出る機会を待っている。が、その機会はこの人に容易に与えられそうもない。話してみると、吉野君も猛烈に焦っている。が、あの人が、「僕だって、これでも新進作家といわれたことがあるんだからな」といった時には、俺は少し淋しい気がした。吉野君は、昔の夢をよほど誇張しているのだ。なんでもあの頃、「文学世界」の当選小説ばかりをあつめた短篇集が世に出たことがある。その標題に、新進作家という肩書きが付いていたように記憶する。が、投書家として栄えたことを、一かどの作家でもあったように幻想して、楽しんでいる吉野君に対して、俺は気の毒のような淋しいような気がした。しかし、俺は吉野君に会ってから、なんだか頼もしいように思い出した。少年時代に十分な才華を輝かしたあの人が、また少しも出られないでいる。それを思うと、俺は少し安心した。
が、この大学の文科の連中は、どうしてああ揃いも揃って救われない人間ばかりが集まっているのだろう。ことに俺のクラスのやつらはひどい。広島の高師を出てきたという男は、昨日教師が黒板に書いた仏の詩人ボードレールの名を、バウデレアとドイツ読みにして、得々としていやがった。もう一人の男は中田博士の質問に答えて、「モンナ・ヴァンナ」はメーテルリンクの小説だと答えていた。俺はやつら全体を軽蔑してやる。高等学校にいた頃には、教室も寄宿舎も、すべてが文芸至上主義で一貫されていた。芸術の名によって、すべてが許された。芸術の
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