名によって、学課や教室を無視することができた。しかるに、ここの文科の教室の空気は、極度に散文的だ。一人として芸術の話をするやつがいない。高等学校出身の人たちは、たいてい病身のために文科を選んだとか、哲学科で一年落第したために、文科へ転じたという連中だ。高師出身の者にも、入学資格があるために、彼らは学士号を得るために、丹念にノートを作っているのに過ぎないのだ。文科的に自由な清新な空気は教室のどこにも存在しなかった。こんな連中を前にして、文学がどうの、芸術がどうのといっている中田博士は、まるきり豚に真珠を撒いているようなものだ。俺は、博士が気の毒になった。

 十一月五日。
 俺は今日偶然、同じクラスの佐竹という男と話をした。俺は今までクラスのやつをすっかり軽蔑していたが、あの男だけは決して俺の軽蔑に値していないことを知った。つい俺が創作の話を持ち出すと、あの男は突然こんなことをいった。
「僕も、実は昨日百五十枚ばかりの短篇を、書き上げたのだが、どうもあまり満足した出来栄えとは思われないのだ」と、いかにも落ち着いた態度でいった。百五十枚の短篇! それだけでも俺はかなり威圧された。俺が今書きかけている戯曲「夜の脅威」は三幕物で、しかもわずかに七十枚の予定だ。しかも俺はそれはかなりの長篇と思っている。しかるに、この男は百五十枚の小説を短篇だといった上、まだこんなことをいった。
「実は今、僕は六百枚ばかりの長篇と、千五百枚ばかりの長篇とを書きかけているのだ。六百枚の方は、もう二百枚ばかりも書き上げた。いずれでき上ったら、何かの形式で発表するつもりだ」と、いうことが大きい上に、いかにも落着いている。自分の力作に十分な自信を持っていて、俺のように決して焦っていない。俺はこの男に威圧されると同時に、一種の頼もしさを感じた。京都にもこうした真摯《しんし》な作家がいるのだ。恐らくこの男の名前は、文芸雑誌などには、六号活字ででも出たことはあるまい。が、この男は黙々として長篇の創作に従事しているのだ。この男の書いたものを一行も読んでいないから、この男の創作の質については一言もいわないが、六百枚、千五百枚という量からいって、この男は何かの偉さを持っているに違いない。が、あの男はその次にこんなことをいった。
「僕は小説家の林田草人を知っている。あれは僕の国の先輩だ。今度文科へ入るについて、わざわざ上京してあの人と会ってきたのだ。快く会ってくれた上に、ばかに話がはずんでね。よく話の分かる人だよ。今度書き上げた百五十枚の小説も、実はあの人のところへ送っておくつもりだ。多分どこかへ、推薦してくれるから」
 俺は佐竹君をかなり尊敬し始めたが、これを聞くと少しこの人が気の毒に思われた。ただ同県人で一面識しかない林田草人を頼りにして、澄ましておられるこの人の呑気《のんき》さが、少し淋しかった。まったく無名の作家たる佐竹君の百五十枚の小説を、林田氏の紹介によっておいそれと引き受ける雑誌が中央の文壇にあるだろうか、また門弟でもなんでもない佐竹君のものを、林田氏が気を入れて推薦するだろうか? あの人は、投書家からいろいろな原稿を、読まされるのに飽ききっているはずだ。こんな当てにならないことを当てにして、すぐにも華々しい初舞台《デビュー》ができるように思っている佐竹君の世間見ずが、俺は少し気の毒になった。実際、本当のことをいえば、文壇でもずぼらとして有名な林田氏が、百五十枚の長篇を読んでみることさえ、考えてみれば怪しいものだ。佐竹君の考えているように、すべてがそうやすやすと運ばれて堪るものかと思った。

 十二月二十九日。
 俺は、今日東京の山野から、不快きわまる手紙を受け取った。それは、俺に挑戦し、俺を侮辱し、俺の感情をめちゃくちゃに傷つけてやろうという悪意にみちた手紙だ。文句はこうだった。
(どうだい! ばかに黙っているね。京都にも、少しは文学らしいものがあるかい。僕たちこっちにいる連中は、もう今までのように、ただぼんやり外国文学の本などを、弄《いじ》り回すことに飽いてしまったのだ。僕たちが、高等学校時代に神聖視していた「文学研究」なども、考えてみればくだらないことじゃないか。僕たちは自分で創作しなければ嘘だ。創作は黄金だ。ほかのすべては銀だ。否、それ以下の銅か鉛かだ。僕たちは、もうじっとしてはおられないのだ。高等学校時代のように、いつまでも呑気に構えられてはおられないのだ。僕たちの計画は、もうすっかり決っている。僕たちは、来年の三月から、同人雑誌を出すのだ。同人の顔ぶれは、桑田、岡本、杉野、川瀬、それに僕、このほかに僕たちより一年上の井上君、芳島君が加わる。雑誌の名は多分「×××」と付くだろう。三月の一日に初号を出す。出版元は日本橋の文耕堂だ。もう、皆は初号の原稿に忙
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