に出す勇気さえなかった。俺は、手持無沙汰になって帰ろうとした。そして帰り際に、
「英国の近代劇の研究には、どんな参考書がいいでしょうか」ときいた。すると博士は言下に、
「マリヨ・ボルサがいいでしょう」といった。俺は、それをきくと少々落胆した。マリヨ・ボルサは、俺が高等学校時代に読んだ本だ。ほんの手引草に過ぎない本だ。
 俺は、博士が詩に熱心で、戯曲には冷淡だという風評を、幾度きいたかもわからない。しかし、これほど博士が戯曲に冷淡だとは思っていなかった。俺は、「夜の脅威」が、博士から受くる待遇についてまったく心細くなってしまった。

 二月二十日。
 中田博士と、教室でたびたび顔を合すけれども、俺の戯曲については何もいわない。しかも博士は講義の時間にイプセンの「幽霊《ゴースト》」を散々に罵倒した。俺の戯曲は、実をいえば「幽霊《ゴースト》」からヒントを得ているので、俺はイプセンに対する博士の罵倒から、かなり傷つけられた。博士は、恐らくそれを故意にやったのではあるまい。が、俺はとにかく不快だった。
 佐竹に会ったが、あいつは林田草人に送った小説について林田から何もいってこないので、かなり気を悪くしているらしい。が、あいつが、自分の小説がすぐ林田の好意ある推薦を受けるとでも、思っているのは、彼の無知から出た自惚《うぬぼれ》だ。

 三月五日。
 とうとう、同人雑誌「×××」が出た。さすがに俺にも一部送ってきた。俺は、それを開いた時、今までにない不快な圧迫を感じた。それは、山野から受けたそれよりも、もっと不快なしかも現実的なものであった。同人の連名を見た時に、俺はとうとうやつらに捨てておかれたと思った。俺はどれほど嫉妬に燃えただろう。俺よりも天分においては劣っていると思う岡本などまでが、俺より急に偉くなったように思われて仕方がない。
 俺は巻頭に載せられた山野の小説「顔」を、恐る恐る読んだ。俺はそれが不出来で、愚作で全然彼の失敗であることを祈りながら読んだ。が、その一分の隙のない、まとまった書き出しに俺はまず気押されてしまった。ことに一句一句、蜘蛛の糸のように粘り気があって、しかも光沢のある文章が、山野一流の異色ある思想をぐんぐんと表現していくあたり、俺はあいつに対してますます強い反感を感ずると同時に、あいつの魅力ある筆致によって、ぐいぐい頭を押えられてしまった。ことに「顔」の主題は、今の文壇には一度も現れなかったような、奇抜なしかも深刻味のある哲学だった。もし、「顔」が、山野、否、俺の友人の作品でなかったら、俺はどんなに驚喜したことだろう。それが、俺の競争者しかも俺を踏みつけようとする山野の作品であるために、俺は全力を尽して、その作品から受ける感銘を排斥しようとした。が、俺は山野の作品の価値を認めぬわけにはいかなかった。が、それから連想されることは、山野が一躍して文壇に認められはしまいかということだ。俺はそれを考えると、いい気はしなかった。山野がいったん認められると、あいつは俺に対してどんな侮蔑をやるかも知れない。同人雑誌を発行したのは、山野の知らしてきたような手緩《てぬる》いものではない。俺はそれを思うと暗然たる気持がする。が、俺を圧迫したのはこの作品ばかりではない。その次に載っている桑田の小説「闖入者《ちんにゅうしゃ》」だって、渾然《こんぜん》としてまとまった小品だ。あいつのきびきびした筆致を見た時、俺は桑田にだってとても敵《かな》わないと思った。が、俺はそのことをなるべく認めまいと努力した。が、実際俺の「夜の脅威」を「顔」や「闖入者」に比べると、作者の俺がどんなに、贔屓《ひいき》目に見ても、やつらのものが段違いにいい。俺は、それを考えると、少し絶望的になる。が、山野や桑田の作品がよいばかりでなく、杉野や岡本のものでも、なかなかまとまった出来栄えだ。俺は杉野や岡本などの素質を、俺以下のものと見積って、やっと安心してきたが、その安心もどうやら根底から揺《ゆら》いできたようだ。俺は雑誌「×××」を手にしたまま午後三時頃から、七時頃まで夕食も食わないで、ぼんやり考え込んでいた。するとそこへひょっこり吉野君がやって来た。俺は、この時ぐらい吉野君を頼もしく思ったことはない。俺は、吉野君と一緒に「×××」の悪口をいいたかったからである。吉野君も恐らく、同じ目的で、俺を訪問したのかもわからなかった。
「やあ! 君も『×××』読んでいたのか。僕も今朝本屋で買ったよ。案外いいものはないね」と吉野君は、座に着くとすぐ、そこに落ちていた「×××」を弄《いじ》くりながら話し出した。俺は、吉野君の総括的な貶《けな》し方が、かなり気に入った。が、俺は「本当だ」とも相槌を打てなかった。実際俺はどの作品も感心していたのであるから、俺は恐々《こわごわ》ながら、

前へ 次へ
全12ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング