山野の『顔』はどうだい」ときいた。
「軽妙だ。しかしあんなものは、誰にだって書けるじゃないか。少なくとも江戸っ子には書けるね」と江戸っ子たる吉野君は昂然としていった。俺の良心は、吉野君のいっていることに、全然反対した。が、俺の感情は吉野君のいったことに満幅の賛意を表した。
「桑田君の『闖入者』もあまりよくないね。古い! まるで、自然主義から一歩も出ていないのだ」
俺は段々心強くなった。俺は、今日ほど吉野君を尊敬したことはなかった。吉野君は、最後にこんなことを付け加えた。
「要するに高等学校の雑誌に、少し毛が生えた程度のものだよ。あれで、文壇に出ようと思っているのは、少し虫が良すぎるね。やっぱり、同人雑誌なんかに、いくら書いてもだめだよ。相当位置のある雑誌で、発表しなければだめだよ」と、吉野君は最後に自分の持論を繰り返した。俺は、吉野君の辛辣な批評をきいて、救われたような心持ちになった。
が、吉野君が帰ってしまうと、俺はまた淋しい心持ちに襲われた。見ると、吉野君に散々叩かれた雑誌「×××」は、洋灯《ランプ》の暗い光のうちに放り出されてある。俺は、創作は黄金だといった山野の言葉を思い出した。そして、たとい小雑誌にせよ、活字になっている以上は、それはもう立派に完成された表現の形式である。それが文壇的に認められる、十分な機会を備えていた。ことに、文科大学生の同人雑誌として、どんなに新鮮な感興を、文壇の一角に、感ぜしめているかもわからなかった。俺は無名の作家たちが、文壇の流行児《はやりっこ》の悪口を思う存分にいい合って、自分たちの認められない腹癒《はらい》せをする場合を、考えることができた。俺と吉野君との会話も、ほとんどそれに近かった。それは弱者の弱い反抗に相違なかった。そう考えてくると、また空虚な感じに襲われた。それにしても中田博士は、俺の「夜の脅威」を、いつまで捨てておくのだろう。俺は、博士の無頓着に対して、軽い反感を懐かずにはおられなかった。
三月十日。
俺は、今日学校で佐竹君に会った時、
「おい君の長篇小説は、どうしたい」ときいた。すると、あの男は、暗い顔をちょっと明るくしながら、
「四百五十枚まで書いた。もう百五十枚書けばいい、この頃は創作熱がまるきり旺盛なのだ。毎晩三十枚を欠かしたことはない」と、昂然たるものがあった。
「どうしたい! 林田のところへ送っておいた小説は」
こうきくと、あの男は急に顔を暗くした。
「送り返してきたよ。雑誌には長すぎるからだって。片々たる短篇ばかりを載せたって、一体どうするというのだ。だから、日本にどっしりした長篇が出ないのだ」
が、俺は佐竹君の小説が、送り返されることを予期していたので、少しも驚かなかった。そして、百五十枚の長篇、しかも無名作家のものが、そう容易に紹介されて堪るものかという気がした。が、俺はこの人の旺然たる創作熱には、いつもながら、敬意を表する。いつか、あの男の部屋を訪問した時、実際あの男は、もう三百枚もあるという草稿を俺に見せた。その上、少年時代からずうっと書き溜めたという高さ三尺に近い原稿を、俺の前に積み上げた。
「百枚ぐらいのものなら、七つ八つありますよ。このうちで、一番長いのは五百枚の長篇で、俺の少年時代の初恋を取り扱ったもので、幼稚でとても発表する気にはなれませんよ。はははは」と笑ったっけ。俺は、あの人の多産に感心すると共に、その暢気《のんき》さにも感心した。発表する気にはならないといって、もし発表する気にさえなればすぐにも出版の書店でもが見つかるような、暢気なことを考えているのだ。俺はあの男のように、発表ということや、文壇に出るということについて、少しの苦労もない心理状態がかなり不思議に思われる。あの男は、ただ書いていさえすればそれで満足しておられるのかしら。
三月十五日。
雑誌「×××」の評判が、素晴らしくいい。ことに山野の「顔」の評判がいい。俺は、なるべく新聞の文芸欄を見まいとした。「×××」が評判されるのが、癪だからである。が、なんとなく「×××」の評判が気になって仕方がない。俺は、白状するが、もう三日ばかり、続けて図書館に通った。そっと「×××」の評判を読むためにである。最初にI新聞が、六号活字ではあったが、雑誌「×××」の創刊を祝福した。そして山野の「顔」を特に激賞した。が、そればかりではなかった。それから三日ばかりして、T新聞の文芸欄で、批評家H氏が山野の「顔」を激賞した。俺はそれを読んで、心の奥からこみ上げてくる嫉妬をどうすることもできなかった。とうとう、あいつに踏みにじられたと思った。俺は、この二、三年、憂慮していた運命が、もう的確に、実現するように思った。山野や桑田が文壇の花形として持てはやされ、俺が無名作家として、永久に葬られる
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