《いたずら》に退く時は逃げたるに当るべし。是非茲は一ト合戦致し退かでは叶わぬ所なり。と云って全軍にて戦わば、大勢退き難からん。明日の合戦は拙者致すべく、その間に人数を繰引《くりひか》せられよ、随分一ト合戦致すべし」と云って、殿《しんが》り戦を引き受けて大勝したのが、碧蹄館の戦である。此の時の隆景の勇姿は摩利支天《まりしてん》の如くであったと云われている。
 隆景に賛成したのが宗茂で、相共に奮戦したのである。加藤清正、安辺に在り、日本軍京城の大勝を聞いて、先陣は必ず立花ならんと云ったが、果してそうであった。
 この戦いの容子から考えて、日本軍の不統一が分るわけで、京城在城の諸軍隆景と宗茂だけよく日本のために万丈の気を吐いたわけである。
 ある日、秀吉が諸大老と朝鮮の事を議しているとき、黒田如水壁越しに、秀吉の耳に入るように放言して曰く、「去年大軍を朝鮮に遣わされしとき、家康か利家か、でなくば軍《いくさ》の道を知りたる拙者を遣わさるれば、軍法定まりて滞りあるまじく、朝鮮人安堵して日本に帰順し、明を征伐せんこと安かるべし。然るを加藤小西|若《ごと》き大将なれば血気の勇のみにて、仕置《しおき》一様ならず、朝鮮の人民日本の|下知《げち》法度を信ぜずして、山林へ逃げかくれ、安堵の思なく、朝鮮の三道荒野となって五穀なし。兵糧を日本より運送するようにては如何で明に入ることを得ん」と。秀吉壁越しに聞き、尤もだと思ったと云うが、まことに朝鮮出兵失敗の根幹を指摘している。

      後記

[#ここから1字下げ]
 この物語を作るに際して参照した書物は次の如くである。
   天野源右衛門覚書
 別名『立花朝鮮記』と云われて居る様に、立花宗茂の戦功を、その部下の源右衛門が書いたものである。
   吉野甚五衛門覚書
   懲※[#「比/必」、第3水準1−86−43]録《ちょうひろく》
 朝鮮の忠臣柳成竜が、八道を蹂躙《じゅうりん》された経過を述べて将来の誡《いましめ》としたもの。
   征韓偉略
 水戸彰考館総裁川口|長孺《ちょうじゅ》の著で、秀吉の譜、宗氏家記、毛利家記、黒田記略、清正記等各部将の家記を始め、朝鮮の懲※[#「比/必」、第3水準1−86−43]録、明の明史までも参照して簡単ではあるが信頼すべきもの。
   堀本朝鮮征伐記
     其他
   日本戦史朝鮮役
   近世日
前へ 次へ
全15ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング