のはその日の暮方で明国朝鮮連合軍の首を斬ること六千余級であると云う。碧蹄館の戦即ちこれである。
 さて大敗を喫した李如松は開城に退いて明朝へ上奏文を送ったが、その中に曰く、
「賊兵の都に在る者二十余万衆寡敵せず、且臣|病《やまい》甚し、他人を以て其任に代えんことを請う」と。今でもそうだが、工合が悪くなったから、病気辞職をしようと云うわけだ。
 朝鮮の忠臣柳成竜は之を見て、二十万なぞとは嘘だと云うと、「汝が国人がそう告げたのだから、事実は乃公《おれ》の知った事じゃない」と云った。時に兵糧欠乏を告げる者があったが如松は成竜の責任であるとして、之を廷下に跪《ひざまず》かしめ、軍法を以って処分しようと怒った。いやしくも一国の廟臣に対して侮辱もまた甚しいわけである。成竜は大事の前の小事と忍んで陳謝したが、国事のついに茲にまで至った事を思うと、覚えず流涕せざるを得なかったと云う。
 愈々《いよいよ》加藤清正咸鏡道より将に平壌を襲わんとして居るとの流言を聞くや、如松はこれをよい口実として、成竜の切願をも斥《しりぞ》けて聞城から平壌へと退いて再び南下しようとはしなかった。

 碧蹄戦後に晉州城攻略の戦いがある。朝鮮役の前役即ち文禄の役中に於ては、この二つが最も大きい戦争であった。碧蹄の敗後は、明の意気全く衰えて、間もなく媾和の事がもち上ったのである。日本軍も長い間の戦闘で可なり弱っても居るので、秀吉は一先ず大部隊を帰国せしめた。媾和の交渉は色々曲折があるが、明使、「爾《なんじ》を封《ほう》じて日本国王と為す」の国書を齎《もたら》した為、秀吉を怒らしむることになり、媾和も全く破れて再度の朝鮮出兵が起る。これが慶長の役で、加藤清正の蔚山《うるさん》籠城なぞはこの時の事である。
 碧蹄館の戦いの主動者は、小早川隆景と立花宗茂の二人であることはまえの通りであるが、此の時京城の日本軍は糧食尽き、三奉行を初め諸将退却の止むを得ざるを知りながら、口先では強がりを云っていたのである。軍議区々であったが、隆景は病と称して評議の席に出でず、いよいよ糧尽くる頃を見計いて、軍議の席に出て、「日本勢此都にて餓死しても後来日本のお為にはならず、退却こそ然るべし」と云ったので、諸将皆隆景説に一致した。その時隆景又曰く、「と云って、仔細なく此都を引き取るべしと思わるるは不覚なり。明人大勢にて押し寄するを知りて、徒
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