に、軍勢を城内に収めるがよかろうと忠告すると、隆景は嘲笑って答えた。明の大軍南下するからには必ずこの城を包囲せずには置かないのである。今若し我軍悉く城中に引籠って了《しま》ったならば、兵糧の道を如何《いか》にして守るつもりであるか。各々方平壌の二の舞を踏みたいわけではあるまいと。――こう云われると誰も答え様がなかった。隆景の武略、諸将を圧していたのである。さて隆景等が退いた開城には、既に李如松等代って入り、京城攻略の策戦を廻《めぐら》した。銭世※[#「木+貞」、第3水準1−85−88]《せんせいてい》は自重説を称え、奇兵を出して混乱に乗ずることを主張する。査大受は、勝に乗じて一挙に抜くべしと論ずる。先ず敵情如何と、査大受一軍をもって偵察に出かけた処が、坡《は》州を過ぎた附近で、日本軍の斥候隊と遭遇した。僅かな人数なので忽ち日本の斥候隊は大受の騎兵団の馬蹄に散らされ六十数名の戦死者を出した。喜び勇んだ大受は勝報を李如松に告げた。時に、日本軍の精鋭は平壌で殆ど尽きて、京城に在るは弱兵恐るるに足りない者許りであるとの諜報も来て居るので、如松は直《ただち》に若干兵を開城に置き、李寧、祖承訓を先鋒として、自ら二万を率いて出動した。大谷吉継が予見したように、臨津江の氷は半ば融けかかって居たので、柳成竜工夫して葛《かずら》をもって橋をかけたので、大軍間もなく坡州に入った。
 京城の日本軍では、いよいよ明軍来が確《たしか》になったので、誰を先手の将とするか詮議|区々《まちまち》である。隆景進み出て云う様、この大役は立花左近将監宗茂こそ適役である。嘗つて某の父元就四万騎をもって大友修理大夫|義鎮《よししず》の三万騎を九州|多々良浜《たたらがはま》に七度まで打破った時に、この宗茂の父伯耆守、僅か二三千騎をもって働き、ついに大友の勝利に導いた事がある。その武将の子である宗茂及びその一党、皆覚えあるものと思う、宗茂が三千は余人の一万に当るであろうと推挙するので、諸将尤もとして宗茂を先陣と定めた。若輩の宗茂は、歴々満座の中に面目をほどこして我陣屋へ帰ると、宗徒《むねと》の面々を呼び集めて、十死一生の働きすべく覚悟を定めた。第一陣はこの宗茂、並びに弟高橋直正以下三千である。第二陣は、隆景旗下八千の兵、第三隊は小早川|秀包《ひでかね》、毛利元康、筑紫広門等五千、第四陣は吉川広家が四千の兵。総勢二
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