んや。俺たちに父親《てておや》があれば、十の年から給仕をせいでも済んどる。俺たちは父親《てておや》がないために、子供の時になんの楽しみもなしに暮してきたんや。新二郎、お前は小学校の時に墨や紙を買えないで泣いていたのを忘れたのか。教科書さえ満足に買えないで、写本を持って行って友達にからかわれて泣いたのを忘れたのか。俺たちに父親《てておや》があるもんか、あればあんな苦労はしとりゃせん。
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(おたか、おたね泣いている。新二郎涙ぐんでいる。老いたる父も怒りから悲しみに移りかけている)
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新二郎 しかし、兄さん、おたあさんが、第一ああ折れ合っているんやけに、たいていのことは我慢してくれたらどうです。
賢一郎 (なお冷静に)おたあさんは女子やけにどう思っとるか知らんが、俺に父親《てておや》があるとしたら、それは俺の敵《かたき》じゃ。俺たちが小さい時に、ひもじいことや辛いことがあって、おたあさんに不平をいうと、おたあさんは口癖のように「皆お父さんの故《せい》じゃ、恨むのならお父さんを恨め」というていた。俺にお父さんがあるとしたら、それは俺を子供の時から苦しめ抜いた敵じゃ。俺は十の時から県庁の給仕をするし、おたあさんはマッチを張るし、いつかもおたあさんのマッチの仕事が一月ばかり無かった時に、親子四人で昼飯を抜いたのを忘れたのか。俺が一生懸命に勉強したのは皆その敵《かたき》を取りたいからじゃ。俺たちを捨てて行った男を見返してやりたいからだ。父親《てておや》に捨てられても一人前の人間にはなれるということを知らしてやりたいからじゃ。俺は父親《てておや》から少しだって愛された覚えはない。俺の父親《てておや》は俺が八歳《やっつ》になるまで家を外に飲み歩いていたのだ。その揚げ句に不義理な借金をこさえ情婦を連れて出奔《しゅっぽん》したのじゃ。女房と子供三人の愛を合わしても、その女に叶わなかったのじゃ。いや、俺の父親《てておや》がいなくなった後には、おたあさんが俺のために預けておいてくれた十六円の貯金の通帳《かよいちょう》まで無くなっておったもんじゃ。
新二郎 (涙を呑みながら)しかし兄さん、お父さんはあの通り、あの通りお年を召しておられるんじゃけに……。
賢一郎 新二郎! お前はよくお父さんなどと空々しい
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