納豆合戦
菊池寛
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)眼《め》をさまして
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)七時|頃《ごろ》
−−
一
皆さん、あなた方は、納豆売の声を、聞いたことがありますか。朝寝坊をしないで、早くから眼《め》をさましておられると、朝の六時か七時|頃《ごろ》、冬ならば、まだお日様が出ていない薄暗い時分から、
「なっと、なっとう!」と、あわれっぽい節を付けて、売りに来る声を聞くでしょう。もっとも、納豆売は、田舎《いなか》には余りいないようですから、田舎に住んでいる方は、まだお聞きになったことがないかも知れませんが、東京の町々では毎朝納豆売が、一人や二人は、きっとやって来ます。
私は、どちらかといえば、寝坊ですが、それでも、時々朝まだ暗いうちに、床の中で、眼をさましていると、
「なっと、なっとう!」と、いうあわれっぽい女の納豆売の声を、よく聞きます。
私は、「なっと、なっとう!」という声を聞く度《たび》に、私がまだ小学校へ行っていた頃に、納豆売のお婆《ばあ》さんに、いたずらをしたことを思い出すのです。それを、思い出す度に、私は恥しいと思います。悪いことをしたもんだと後悔します。私は、今そのお話をしようと思います。
私が、まだ十一二の時、私の家《いえ》は小石川《こいしかわ》の武島町《たけじまちょう》にありました。そして小石川の伝通院《でんずういん》のそばにある、礫川《れきせん》学校《がっこう》へ通っていました。私が、近所のお友達四五人と、礫川学校へ行く道で、毎朝納豆売の盲目《めくら》のお婆さんに逢《あ》いました。もう、六十を越しているお婆さんでした。貧乏なお婆さんと見え、冬もボロボロの袷《あわせ》を重ねて、足袋《たび》もはいていないような、可哀《かあい》そうな姿をしておりました。そして、納豆の苞《つと》を、二三十持ちながら、あわれな声で、
「なっと、なっとう!」と、呼びながら売り歩いているのです。杖《つえ》を突いて、ヨボヨボ歩いている可哀そうな姿を見ると、大抵《たいてい》の家《いえ》では買ってやるようでありました。
私達は初めのうちは、このお婆さんと擦《す》れ違っても、誰《たれ》もお婆さんのことなどはかまいませんでしたが、ある日のことです。私達の仲間で、悪戯《いたずら》の大将と言
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