田原坂合戦
菊池寛

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)国幹《くにもと》

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(例)当時|赫々《かくかく》

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 (例)百戦無[#レ]効
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 西郷降盛が兵を率いて鹿児島を発したときの軍容は次の通りである。
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第一大隊長  篠原 国幹《くにもと》
第二大隊長  村田 新八
第三大隊長  永山弥市郎
第四大隊長  桐野 利秋
第五大隊長  池上 四郎
第六大隊長  別府 晋介
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 大隊長は凡《すべ》て、名にし負う猛将ぞろいである。殊に桐野利秋は中村半次郎と称して維新当時にも活躍した男である。各大隊は兵数ほぼ二千名位ずつであるから総軍一万二千である。各大隊には砲兵が加って居たが、その有する処は、四斤砲二十八門、十二斤砲二門、臼砲三十門であった。その外《ほか》後に薩、隅、日の三国で新に徴集したもの、及、熊本、延岡、佐土原、竹田等の士族で来り投じたものが合せて一万人あった。この兵力に加うるに当時|赫々《かくかく》たる西郷の威望があるのだから、天下の耳目を驚かせたのは当然である。
 薩軍が鹿児島を発した日から南国には珍らしい大雪となって、連日紛々として絶えず、肥後との国境たる大口の山路に来る頃は、積雪腰に及ぶ程であった。しかし薩軍を悩したものは風雪だけであって、十八日から二十日に至る間、無人の境を行く如くして肥後に入った。西郷東上すとの声を聞いて、佐土原、延岡、飫肥《おび》、高鍋、福島の士族達は、各々数百名の党を為して之に応じて、熊本に来て合した。熊本の城下に於てさえ、向背の議論が生ずる有様で、ついに池辺吉十郎等千余人、薩軍に馳せ参ずることになった。
 私学校の変に次いで、西郷|起《た》つとの報が東京に達すると、政府皆色を失った。大久保利通は、悒鬱《ゆううつ》の余り、終夜|睡《ねむ》る事が出来なかったと云う。そして自ら西下して、西郷に説こうとしたが、周囲の者に止められた。岩倉具視も心配の極、勝安房をして行って説諭させんとした。これは江戸城明け渡しの因縁に依って、それを逆に行こうと云うわけであったが、勝が「全権を余に委任する上は、西郷の意を容れなければいけない。それでよろしいか」と云うに及んで、岩倉は黙し、ついにその事も行われなかった。
 此年一月末明治天皇は畝傍《うねび》御参拝の為軍艦に召されて神戸に御着《おんちゃく》、京都にあらせられた。陸軍中将山県有朋は、陛下に供奉《ぐぶ》して西下して居たが、西南の急変を知るや、直ちに奏して東京大阪広島の各鎮台兵に出動を命じた。而して自ら戦略を決定したが、この山県の戦略が官軍勝利の遠因を為したと云ってよい。山県は薩軍の戦略を想定して、
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一、汽船にて直ちに東京或は大阪に入るか
二、長崎及熊本を襲い、九州を鎮圧し後|中原《ちゅうげん》に出るか
三、鹿児島に割拠し、全国の動揺を窺《うかが》った後、時機を見て中央に出るか
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 この三つより他に無いと見た。之に対して官軍の方略は、敵がその何《いず》れの策に出づるを顧みず、海陸より鹿児島を攻むるにありとした。更に地方の騒乱を防ぐ為に、各鎮圧をして連絡厳戒せしむる事にした。以上が山県の策戦であるが、山県の想定に対して、薩軍はその第二想定の如く堂々の正攻法に拠《よ》ったのであった。
 薩軍、軍を登《のぼ》する前に隆盛の弟西郷小兵衛が策戦を論じた。曰く「軍を三道に分って、一は熊本を囲み、一は豊前豊後に出でて沿海を制し、一は軍艦に乗じて長崎を襲う」と、云うのだ。処が桐野利秋が反対して、
「堂々たる行軍をしてこそ、天下|風《ふう》を望むであろう。奇兵なぞを用いなくとも、百姓兵共、何事かあらん」と云ったのでそのままになった。小兵衛出でて「薩摩|隼人《はやと》をして快く一死を遂げしめるのは利秋である。また薩摩隼人をして一世を誤まらしむるものも利秋である」と嘆じたと云うが、これは確に、後に至って何人《なんぴと》も想い当った事に違いない。
 東京政府の狼狽は非常であった。三条|実美《さねとみ》、伊藤博文等は平和論を主張して居たし、朝廷にても、有栖川宮|熾仁《たるひと》親王を勅使として遣わされようと云う議さえあった。然るに熊本からの報によれば、二十日か二十一日をもって開戦となろうとの事であるので、勅使の議はとり止めとなり、十九日には、征討の詔《みことのり》を下され、熾仁親王を征討総督に任ぜられた。山県参軍は二十五日に博多に着き、征討総督も川村参軍を従わせられて翌日に御着、本営を勝立寺《しょうりゅうじ》に置き給うた。官軍がこの地に本営を置いた事は、策戦の上でどれ程有利な結果を来したか知れないのである。海陸運輸の便があり、嘗《か》つて、北条氏、足利氏等の九州征略の際にも、博多はその根拠地となった程である。薩軍にして、若《も》し早く此地を占めて居たならば、戦局は、多少異った方面に発展したに相違ない。
 此役に於ける官軍の編成は、旅団が単位であるが、一個旅団は二個連隊、四個大隊であり、之に砲工兵各々一小隊が加って、総員三千余人だった。最初野津少将の第一旅団、三好少将の第二旅団、総兵四千ばかりに、熊本鎮圧、歩兵第十四運隊の凡そ二千余が加って居た。勿論これで薩軍に対抗は出来ないから、間もなく、
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第三旅団 三浦少将
第四旅団 曾我少将
別働第一旅団、同第二旅団、大山少将
別働第三旅団 山田少将
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 等の編成が行われ、諸軍合せて、歩兵は五十五大隊、砲兵六大隊、工兵一大隊、騎兵及|輜重《しちょう》兵若干、それにこの戦に特別の働があった警視庁巡査の九隊、総員|凡《およ》そ五万人である。
 兵器は、薩軍の多くが口装式の旧式銃であるのに対して、底装式、スナイドル銃と云うのを持って居た。兵力兵器に於て差があり、官賊の名分また如何《いかん》ともしがたいのだから、薩軍の不利は最初から明白であったが、しかし当時は西郷の威名と薩摩隼人の驍名《ぎょうめい》に戦《おのの》いていたのであるから、朝野の人心|恟々《きょうきょう》たるものであったであろう。
 熊本城に於ては、司令長官谷干城少将以下兵二千、人夫千七百、決死して城を守る事になり、あらゆる準備を怠らなかった。これから有名な熊本籠城が始まるのである。二月十九日、大山県令から西郷の書を城中に致した。その文に曰く、
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拙者儀今般政府へ尋問の廉《かど》有之《これあり》、明後十七日県下|登程《とうてい》、陸軍少将桐野利秋、篠原国幹及び旧兵隊の者随行致候間、其台下通行の節は、兵隊整列指揮を可被受《うけらるべく》、此段|及照会《しょうかいにおよび》候也。
   明治十年二月十五日
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[#地から1字上げ]陸軍大将 西郷 隆盛
   熊本鎮台司令長官
 陸軍に於ける上官として命令しようと云うのであるから、子供だましのようなものである。
 城内の樺山|資紀《すけのり》中佐は直ちに断然として斥《しりぞ》けた。二十日には別府晋介の大隊が川尻に到着して、其夜、鎮台の巡邏兵《じゅんらへい》四五十人と衝突した。これが両軍開戦の最初である。
 二月十四日、乃木少佐は、小倉第十四連隊の一部隊を率いて、午前六時に折柄の風雪を冒して出発した。黒崎で昼食《ちゅうじき》したが、ここからは靴を草鞋《わらじ》に代えて強行軍を続け、真暗になった午後六時に熊本に達する事が出来た。この強行軍の一部隊の如きは、疲労の為に車馬を雇わざるを得ない程であった。乃木は更に福岡の大隊を指揮する為に、熊本を去ったが、熊本から、直ちに入城すべしと云う急電を受けるや、すぐ引返した。二十二日午前六時|南関《みなみのせき》を立って十一時高瀬で昼食したが、此時、少佐は軍医と計って、酢を暖めて足を痛めて居るものを洗わしめ、食後に酒を与えて意気を鼓舞した。午後一時|茲《ここ》を立って植木に向ったが、木葉《このは》駅に至る頃賊軍既に植木に入って居ると云う報を受けたので、十数騎を前駆させ斥候せしむるに、敵は既に大窪に退いたと云う。ここに於て、駅の西南に散兵を布いて形勢を窺う事にしたが、僅かに一個中隊の兵力であった。
 日は既に暮れて、寒月が高く冴えて居る。白雪に埋った山野には、低く靄《もや》がかかって居て、遠く犬の声が聞える。淋しさと寒さとの中に斥候の報告を待って居る散兵線はにわかに附近の林中からの銃火を浴びた。乃木は我の寡兵を悟らせまいとして尽く地物に隠れさせ、発砲を禁じ、銃剣をつけさせ、満を持した。午後七時薩軍は、ふり積む白雪の上を、黒々となって吶喊《とっかん》して来た。乃木軍始めて発砲し応戦したが、薩軍の勢は次第に増し、乃木隊|頗《すこぶ》る苦戦である。将校も負傷者の銃をとって射撃し、激戦午後九時にまで及んだが、薩軍は次第に官軍を包囲する状態にまでなり、全滅の危機に臨んだので、退却を決意し、河原林少尉をして、軍旗を捲いて負わせ、兵十余人を付けて衛《まも》らしめ、火を挙げるのを合図に、全軍囲を衝いて千本桜に退却集合することを命じた。櫟木《くぬぎ》、山口の両軍曹に命じて火を挙げさせようとしたが、折あしく此夜は、微風も起たない穏かな夜なので、容易に火が挙らない。やっと火の付いたのが、九時四十分頃であった。命令一下各自血路を開いて退却千本桜に集合出来たので、乃木少佐が隊列を検閲すると、肝心の河原林少尉の姿が見えない。最後の激戦の時、刀を揮って挺身する姿を見たから、或は敵手に陥ったのではないかとの事に、乃木少佐は驚いた。軍旗を失わば何の面目があろう、我は引き返して軍旗を奪還するから、志ある者は我に従えとて、奮然として行こうとするのを、村松曹長、櫟木軍曹等が泣いて諫止した。これが、乃木将軍の西南役に於ける軍旗を奪われた始末である。
 二十三日にも第十四連隊は木葉附近に陣をとり、朝から優勢な薩軍と、銃火を交えた。中央部隊の大隊長、吉松少佐は乃木に向って援兵を乞うた。応援させる兵は無いが、自分がその戦線を代ろうかと乃木が云ったのに対して、吉松少佐は笑ってその必要の無いことを答えたが、間もなく吉松の率いる兵の突撃する声が聞えた。吉松少佐はついに重傷を負って斃《たお》れた。
 この応酬など戦国時代の古武士の風格が偲《しの》ばれる。日が暮れても薩軍の砲撃の少しも衰えない為、乃木はまた退却を決心した。命を下そうとして居る際に、薩軍は大挙して押し寄せた。日暮れである上に雨と硝烟の間敵味方もさだかでないままに相乱れて戦った。乃木の馬が疲れたので、吉松の馬に乗り換えたが、忽ち弾丸が馬に中《あた》って、馬は狂奔して敵中に入ろうとした。幸い、馬が中途で斃れたので、地上に投げ出された。そこを、薩兵つけ入ろうとしたのを、大橋伍長が身を以って防ぎ、摺沢《すりざわ》少尉も返し合せて、身には数弾を受けながら乃木を救った。全隊辛うじて木葉川を渉って、川床で始めて隊伍を整える事が出来た。乃木は、さんざんの苦戦であったのである。
 二十六日早朝、乃木はまた先陣として高瀬に向ったが、再三の敗北を残念に想い、兵を励まして奮闘した。薩軍は高地に拠って居るので味方は甚だ苦戦したが、ついに正面の断崖を攀《よ》じ、安楽寺山を越え更に木葉に至った。その上に前軍は既に田原坂《たばるざか》を占領したとの報がある。勇躍した乃木は後軍の直に続かんことを伝えたが、意外にも三好少将の退却の命に接した。乃木は此地一度失うならば、再び得難い旨を進言した。けれども許されない。止むなく退却したのであったが、もし、此の時田原坂を占領していたならば、田原坂の難戦は起らずに済んだかも知れない。
 薩軍もまた、桐野は山鹿方面から、篠原は田原方面から、羽田は木留《きどめ》方面から、各々高瀬を攻略しようとした。二十七日には、この薩軍は第一
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