旅団の兵が、高瀬川、迫間《せこま》川の流域に要撃して激戦を交えたが、三好少将も右臂《みぎひじ》は弾丸で傷き、官軍|将《まさ》に敗れんとした。野津少将の軍が来り援けた為、形勢は逆転して、高瀬川の南で、薩将西郷小兵衛を殪《たお》すに至った。
 官軍二十七日の戦いに勝ったので、野津三好両少将は、斥候をして迫間川を渉って偵察せしめたが敵影を見ない。いよいよ追撃を決して本軍(近衛一大隊、第十四連隊の一大隊、山砲臼砲各二門)は木葉を通って植木へ、別軍(近衛三中隊鎮台兵三中隊、山砲二、臼砲一)は高瀬から伊倉、吉次越《きちじごえ》を越して熊本を目指すこととなった。官軍の追撃急であり、若しこの一戦に破れれば、熊本包囲の事も水泡に帰するので薩軍は余軍のうち二千余をもって衝背軍に当り、八百余をして熊本城を攻め、其余の兵力は悉くこの守線に動員した。田原坂は特に私学校の精鋭をして守らしめた。薩将また各自に守る処を決し、桐野は山鹿方面を、篠原は田原方面を、村田及熊本隊は木留方面に陣した。野出、太田尾、三ノ嶽、耳取の天険は遙かに田原、山鹿に連絡して、長蛇の横わる如き堅陣は、容易に破り難く見えた。戦備を了《おわ》った官軍は、月が変って三月三日、行動を起した。野津少将は高瀬の第一、第二両旅団をして予定の行軍を起さしめた。本軍が安楽寺村に達すると、稲佐村附近の丘陵に拠った薩軍は猛烈に砲撃した。薩軍は屡々《しばしば》間道から奇兵を出して襲撃したので、官軍は損傷を受けることが多かったが、官軍もさるもの、間道の迂回線に多くの兵を割いて四方から攻撃したので、この塁も陥り、ついに木葉を占領し、更に境木《さかいぎ》を攻略するに至った。この様な山間の戦闘では、間道から敵の側面背面を、急襲するのが有利である。別軍も伊倉を経て吉次越にさしかかると、待ち構えた薩軍は、峠の麓の立岩に在って砲火を開いた。官軍勇を奮って躍進するが、なかなか頑強であって、之を抜く事が出来なかった。その筈である、丁度此処には、薩の勇将、篠原、村田が、頑張って居たのだから。
 この日、両将は木留の本営に居たのであったが、急を聞いて部下三四百を率い、馳せ来って、吉次越の絶頂の凹《へこ》んだ処に木と草とで忽ち速成のバンガローを造って、悠々と尻を落ちつけて、指揮したと云う。最初、篠原が乗り込んで来た時は、官軍の追及急なので、薩兵少しく浮足になって居るのを、篠原大刀を揮って之を叱した。次いで単身、ゆるやかな足取りで来たのが村田である。薩軍やや元気を恢復したものの、猶《なお》危倶の念が去らないので、村田の姿を見ると、「退却で御座いますか」と問うた者がある。村田嘲笑って曰く、「ひとつ官軍の奴共を、この狭隘の地に引入れて、鏖《みなごろし》にして見せるかな」と。容易に抜く事が出来なかったのも尤である。別府晋介また、別路から、小天《こてん》街道に赴いて海岸線を守ったが、此日、朝の十時から昼の三時に至る間激戦少しも止まず、官薩の死傷相匹敵したと云う。
 それにしても、官軍は境木まで前進することを得て居る。田原坂はもう、この境木の目の前に在る。田原坂の血戦の幕が、切って落されたのは間も無くである。
 当時東京日日の新聞社長であった福地源一郎氏が、従軍記者として、田原坂戦闘の模様を通信して居るのがある。その中に田原坂の要害を報じて、
「……坂は急上りの長坂にて、半腹の屈曲をなし、坂の両側は皆谷にて谷の内の両側は切り崖、樹木茂る。この険の突角の所を撰びて、賊は砲塁を二重にも三重にも構へ、土俵が間に合はぬとて、百姓共が囲み置く粟麦などを俵のまゝ用ひたる程なり」
 大体その険要の地であることが察せられるであろうと思う。
 三月四日に、第一回の田原坂攻撃が始まる。前夜、先ず、山鹿《やまが》南関の間の要衝に兵を派して厳戒せしめた。これは薩軍が迂回して背後を衝くのを慮《おもんぱか》ったからである。而して後、第二旅団の全部と、第一旅団の一部を本軍として、正面から攻撃することになり、第一旅団の残部は二俣《ふたまた》を目指すことになった。本軍の先鋒青木大尉は、率先して進み、第一塁を陥れて勇躍更に坂を上るが、薩軍の弾丸は雨の様に降りそそぎ、午後の三時になっても占領する事が出来ないので退却した。坂の麓で督戦して居た野津少将は、再度の突撃を決意して、将士と共に決死の酒を酌《く》んで鼓舞した。折しも、時ならぬ雷雨が襲って、鬱然たる山峡は益々暗い。天の時なりと考えた少将は、進軍|喇叭《らっぱ》を吹かしめ、突進させた。しかし敵弾雨よりも繁《しげ》しくて、徒《いたず》らに多くの死傷を出すに終った。此時の戦に、谷村計介も戦死したのである。計介は始め、第十三連隊長心得、川村操六少佐の旗下で、熊本籠城の一人であった。殊死して守城するに決心した谷少将は、何とかして守城の方略を官軍の本営に伝えたいと思った。そこで川村少佐に相談した処、少佐は計介の為人《ひととなり》を知って居たから、この重大任務遂行の使者として、之を少将に推薦した。計介は任務重大であって、その任でないと固辞したが、一度引受けるや、死をもって遂げる事を誓った。顔から手足まで、煤《すす》を塗って人相を変え、夜陰に乗じて城を抜け出し、南関へ行こうとして、忽ちにして捕えられた。しかし必死の計介は、監視の薩兵が居眠りして居る隙に、爪で縄を断ち切って逃れた。この辺一帯、薩軍の眼が光って居るので、風の声にも心許さず、やっと吉次山中まで潜り込んだ処を、再び捕えられた。異様の風体で、山中を徘徊《はいかい》して居たものだから、てっきり官軍の間諜と目星を指されて、追究|拷問《ごうもん》至らざるは無しである。計介苦痛を忍びながら、佯《いつわ》って臆病な百姓の風を装ったので、幸い間諜の疑いは晴らされたが、その代り人夫として酷使される事になった。西南の役始終を通じて、官薩両軍ともに、戦闘員の外に、非常に多くの人夫を使役した。ただでは計介も許されなかったわけである。しかし此処でも、うまく敵の目を掠《かす》めて、漸く官軍の戦線に到達すると、今度は官軍の歩哨に縛られて仕舞った。勇んで縛られて、野津少将の前に引出される時は、ものも云い得ずして、汚れた頬に涙が伝るのを如何ともし難かったと云う。
 官軍の第一次の正攻が敗れた如く、二俣に向った軍も亦《また》敗れた。本軍の奮戦と共に、吉次越攻撃の別軍二個大隊半は、野津大佐(道貫と云う、野津鎮雄少将の弟)に率いられて、立岩の塁を攻めた。薩軍は、砲を山頂に設け、銃隊を山腹の深林中に隠して、射撃する。絶頂で篠原と共に指揮して居た薩将村田は、「両翼を張って挾み撃ちしてやろう」と云って軍を二分し、一は半高山の絶頂から、一は三ノ嶽の中腹から、左右の翼を張らしめた。官軍は見事に術中に陥入って算を乱して斃れる。時機はよしと、午後一時頃薩軍は突出して殺到した。掩護物《えんごぶつ》の作業をして居た官軍の工兵は、その不意に驚いた為、周章は全軍に及んだので、ついに退却の止むなきに至った。原倉、伊倉に一大隊を置き、あとは悉く高瀬まで退いたのが午後六時である。此日猛烈な戦闘で昼食をとる暇がなかった。指揮官野津大佐は、敵弾を、一つは革帯に、二つは軍刀に受けた程である。薩軍の勝ではあったが、篠原が此戦に死んだ事は、薩軍の士気に関するもので大打撃であった。此日、篠原国幹は、外套の上に銀かざりの太刀を佩《お》び、自ら刀を揮って指揮したのだが、官軍の江田少佐がその顔を知って居って、狙撃させて斃したのであった。その江田少佐自身も数弾を浴びて戦死して居る。
 越えて六日には、早朝から、田原坂、二俣を攻撃したが、一進一退、容易にこれを抜く事が出来ない。高瀬に在る野津大佐は、四十数名の選抜隊をして夜六時、二俣口の船底山の塁を、間道から襲撃させた。これは成功して隊長本多中尉は、敵塁に火を放って占領を報じて、更に背後の塁を衝かんとしたが、薩軍の抜刀して襲来すること三回に及んで、果すことが出来なかった。薩軍では抜刀隊を組織して居る事がわかったので、官軍も之に応じて、別働狙撃隊を新に編成した。
 七日、官軍の援兵大いに来って、歩兵は三十二個中隊に及んだので、新手をもって次ぎ次ぎ攻めたてた。しかし一塁を抜いたと思うとすぐ奪還される始末なので、こちらにも、塹壕《ざんごう》、胸壁が必要であるとて、工兵が弾雨の間を作業した。薩軍の塁に近いのは僅かに二十六米、遠いのでも百米を下らない距離で、作業の困難は一通りでない。射撃の手を少し休めると、忽ち抜刀の一隊が押し寄せた。此夜、折角得た船底の塁もまた奪い去られた。終日の発砲で、銃身が皆熱したので、中には小便をかけて冷したりして用いたが、それでも破裂するものがあった。
 八日から十一日まで、戦闘は相変らず激しいが、戦況は依然たるままであった。何時までも、このままでは熊本城は危い。官軍は連日の戦闘で、部署が錯雑して陣形が乱れて居るので、改めて陣容を建なおした。三浦少将の第三旅団は山鹿口を、大山巖少将の第二旅団と別働隊、野津少将の第一旅団は田原口を夫々攻撃することになり、参軍山県中将も本営を高瀬に進めた。十四日の午前六時、号砲三発山に木魂すると共に、官軍の先鋒は二俣口望んで、喊声を挙げる。歩兵に左右を衛られた中央部隊は、暁暗に白く大刀をひらめかして居る。これが、警視庁から派遣されて居た巡査をもって編成した抜刀隊で、この抜刀隊の肉弾戦が、田原坂攻略に大きな役割を果したのであった。不意の吶喊に薩軍の周章《あわて》るのを、白刃と銃剣で迫り、一百の抜刀隊は諸隊を越えて敵塁に躍り入り、忽ちにして三塁を陥し入れた。薩軍は支えずして、逃れたが、しかし彼我百五十米位で止り、樹木や岩石に拠って猛射するので、官軍の斃れるものが二百余に及んだ。塁や塹壕に躍り入る際に、木材を鋭く削って居るのに落ちて傷つく者も多かった。が、敵塁を占領したのもしばらくで、忽ち薩の抜刀隊五十名余りが、わめき叫んで逆襲して来た為に、官軍敗れ退いて、かの三塁も奪還された。
 官軍の抜刀隊又之に屈せず逆襲したので、夜明けの山中に、頻々として白兵戦が展開された。官軍の抜刀隊奮戦して、薩兵数十人を斬って走らせたので、再び塁を占領出来た。
 薩軍は猶も之を取りもどそうと、大挙して押し寄せた。
 官軍の抜刀隊は死骸を楯にして敵弾を防ぎ、歩兵の来《きた》るを待ったが、忽ちに三十余名が斃されたので、恨を呑んで引上げた。三度まで占領したが、最後にまた薩軍の手に帰したわけである。官軍にとって結局は失敗であったにしろ、今日まで十数日の間、兵火を浴せて猶陥ちなかったここを、この日の一撃でとにかく一度は占領する事の出来たのは、大成功であった。
 二俣の東南寄りに、横平《よこひら》山という高地がある。この高地は三ノ嶽の脈に当って吉次、半高の諸山に連り、その支脈は更に田原坂、白木に及んで居る。
 十五日の早朝、両旅団の砲兵は、二俣、田原に近く進んで、砲撃を開始した。
 此日は深い霧で、砲煙は霧に溶け込んで、砲声のみが、無気味に響いて居る。官軍が砲撃して居る頃、黙々として、横平山の間道を攀じりつつある三百|許《ばか》りの人数があった。横平山頂の官軍の守塁に近付いた午前四時、不意に抜刀して斬り込んだ。追い落された官軍は、中腹を防ぐけれども、高い処から狙い射ちに撃たれるのだからかなわない。若し、ここを奪われるなら、二俣口の守線も打撃を受け、田原坂攻撃の策戦に、重大な影響を与えるので、応援の兵と共に、必死に戦った。
 薩軍は山腹に下って、林に隠れて射撃をする。官軍は銃に装剣して抜刀隊と共に進み、午後二時になって、やっと山腹の二塁を奪還した。
 然し、絶頂の一塁は猶敵手にある上に、薩軍は兵力を増加した様子である。薩軍の兵火少しく衰うと見ると進み、激しいと見ると伏す。匍匐《はらば》って進むのであるが、木や草が稀なので地物として利用するものが無い。胸壁を築きたくも、砂が無いので、近衛の工兵が、山麓から、土砂を採って袋に入れ弾雨の中を背負って運送し、自壁を急造した。
 此時は、両軍の距離が十米で、陸
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