軍の旧制服や、海兵服や莫大小《メリヤス》の股引等の服装をした薩兵が、手にとる如く見えた。
 午後になって抜刀隊の巡査五十名を間道から進ませ、歩兵また、装剣して待機し、喇叭を合図に、全軍一斉に挺進して数十人を斬り、砲塁全部を恢復し得た。
 午後四時であるから丁度十二時間の戦闘である。抜刀隊中、死する者十二人、傷者三十六人と云うから、ほとんど全滅したわけである。
 三月二十日、官軍いよいよ最後の総攻撃を決したが、連日の激戦にも拘らず、おしまいは案外容易に占領する事が出来た。天険田原坂も此日をもって完全に陥ったのである。
 この日、昨夜からの豪雨が、暁になっても止まない。朝の五時には食事を終った官軍は、二俣口から渓谷を渉り、田原坂の横に潜行して、各自部署に就いた。待つ事少時、三発の号砲を聞くや、躍進して迫り、右翼第一線の塁を抜いた。二俣口から放つ砲弾も、盛んに後塁に落下して居る。
 夜は既に明け放れて山霧全く霽《は》れ、雨足も亦|疎《まば》らになった。官軍は死屍《しかばね》を踏んで田原坂に進み、更に一隊は、敵塁の背後に出でようとした。薩の哨兵が、本塁に之を報ずると、防守の望み、既になしと覚ったか、塁を棄てて退却した。
 始め、官軍は、一部隊をして、田原坂正面に屯せしめて正攻に出づるが如くに見せて、薩軍を欺いたのが成功したのである。既に本塁を我手に入れたのだが、田原口の部隊は、まだ之を知らずに、盛んに坂上を射撃する。喇叭で報じてもわからない。一少尉が塁上に上り、旗を振って叫んだので、漸く知ったと云う。
 丁度十時頃になって居たが、全軍直ちに追撃して、植木の営を衝いた。
 薩軍は、田原の険を恃《たの》んで、植木の営の警備を怠って居たので、輜重を収める暇もない。町に入り込んだ官軍は、民家に放火した。
 薩軍は総退却して向坂《さきさか》に入って、尾撃して来た官軍と対峙した。
 山鹿方面の薩軍は、田原敗ると聞いて、即日、鳥栖《とす》地方に退き、官軍の本営は、七本に移り進んだ。向坂対陣中、薩将、貴島清、中島健彦等が熊本隊を率いて官軍を急撃した事もあるが、大勢は既に決したのである。

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|百戦無[#レ]効《ひゃくせんこうなし》半歳間《はんさいのかん》
|首邱幸得[#レ]返[#二]家山[#一]《しゅきゅうさいわいにかざんにかえるをえたり》
|笑儂向[#レ]死《わらってわれしにむかう》|如[#二]仙客[#一]《せんかくのごとし》
尽日洞中棋響閑《じんじつどうちゅうききょうかんたり》
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 岩崎谷の洞壁に書き終って、筆を投じた隆盛が腹を切るまで、人吉、豊後口、宮崎、延岡、可愛嶽と激烈な転戦はあったが、田原坂の激戦は、西南戦争の最初にして、しかも最後の勝敗を決したものと云ってよいのである。
 この戦に於て所謂《いわゆる》百姓兵の為すある事があり、徴兵制度の根本が確立したのである。
 自分は、昭和五年に鹿児島へ行ったが、西郷隆盛以下薩軍の諸将の墓地が、壮大であるのに引きかえ、西南戦争当時の官軍の戦死者を埋葬した官軍墓地と云うのが、荒寥《こうりょう》としていたのは、西南戦争当時の薩摩の人心の情勢が今もなおほのかに残っている気がして、興味を感じた。



底本:「日本合戦譚」文春文庫、文藝春秋社
   1987(昭和62)年2月10日第1刷発行
※底本では本文が「新字新仮名」引用文が「新字旧仮名」ですが、ルビは「新仮名」を共通して使用していると思われますので、ルビの拗音・促音は小書きにしました。
入力:網迫、大野晋、Juki
校正:土屋隆
2009年9月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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