原が此戦に死んだ事は、薩軍の士気に関するもので大打撃であった。此日、篠原国幹は、外套の上に銀かざりの太刀を佩《お》び、自ら刀を揮って指揮したのだが、官軍の江田少佐がその顔を知って居って、狙撃させて斃したのであった。その江田少佐自身も数弾を浴びて戦死して居る。
越えて六日には、早朝から、田原坂、二俣を攻撃したが、一進一退、容易にこれを抜く事が出来ない。高瀬に在る野津大佐は、四十数名の選抜隊をして夜六時、二俣口の船底山の塁を、間道から襲撃させた。これは成功して隊長本多中尉は、敵塁に火を放って占領を報じて、更に背後の塁を衝かんとしたが、薩軍の抜刀して襲来すること三回に及んで、果すことが出来なかった。薩軍では抜刀隊を組織して居る事がわかったので、官軍も之に応じて、別働狙撃隊を新に編成した。
七日、官軍の援兵大いに来って、歩兵は三十二個中隊に及んだので、新手をもって次ぎ次ぎ攻めたてた。しかし一塁を抜いたと思うとすぐ奪還される始末なので、こちらにも、塹壕《ざんごう》、胸壁が必要であるとて、工兵が弾雨の間を作業した。薩軍の塁に近いのは僅かに二十六米、遠いのでも百米を下らない距離で、作業の困難は一通りでない。射撃の手を少し休めると、忽ち抜刀の一隊が押し寄せた。此夜、折角得た船底の塁もまた奪い去られた。終日の発砲で、銃身が皆熱したので、中には小便をかけて冷したりして用いたが、それでも破裂するものがあった。
八日から十一日まで、戦闘は相変らず激しいが、戦況は依然たるままであった。何時までも、このままでは熊本城は危い。官軍は連日の戦闘で、部署が錯雑して陣形が乱れて居るので、改めて陣容を建なおした。三浦少将の第三旅団は山鹿口を、大山巖少将の第二旅団と別働隊、野津少将の第一旅団は田原口を夫々攻撃することになり、参軍山県中将も本営を高瀬に進めた。十四日の午前六時、号砲三発山に木魂すると共に、官軍の先鋒は二俣口望んで、喊声を挙げる。歩兵に左右を衛られた中央部隊は、暁暗に白く大刀をひらめかして居る。これが、警視庁から派遣されて居た巡査をもって編成した抜刀隊で、この抜刀隊の肉弾戦が、田原坂攻略に大きな役割を果したのであった。不意の吶喊に薩軍の周章《あわて》るのを、白刃と銃剣で迫り、一百の抜刀隊は諸隊を越えて敵塁に躍り入り、忽ちにして三塁を陥し入れた。薩軍は支えずして、逃れたが、しかし彼我百五十
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