け》た事をぬかすねえ」
 そう云われると、忍松は一言もなかった。半白《はんぱく》の頭を、テレ隠しに掻《か》いていた。
 そうしているうちに、半時ばかり経った。日光山らしい方角に出た朝日が、もう余程さし登っていた。忠次は、黙々として、みんなの云う事を聴いていた。二三人連れて行くとしたら、彼は籤引では連れて行きたくなかった。やっぱり、信頼の出来る乾児を自ら選びたかった。彼は不図《ふと》一策を思い付いた。それは、彼が自ら選ぶ事なくして、最も優秀な乾児を選み得《う》る方法だった。
「お前達の様に、そうザワザワ騒いでいちゃ、何時《いつ》が来たって、果てしがありゃしねえ。俺一人を手離すのが不安心だと云うのなら、お前達の間で入《い》れ札《ふだ》をしてみちゃ、どうだい。札数の多い者から、三人だけ連れて行こうじゃねえか。こりゃ一番、怨みっこがなくって、いいだろうぜ」
 忠次の言葉が終るか終らないかに、
「そいつぁ思い付きだ」乾児のうちで一番人望のある喜蔵が賛成した。
「そいつぁ趣向だ」大間々の浅太郎も直ぐ賛成した。
 心の裡で、籤引を望んでいる者も数人あった。が、忠次の、怨みっこの無いように、しかも役に立つ乾児を、選ぼうと云う肚《はら》が解ると、みんなは異議なく入れ札に賛成した。
 喜蔵が矢立《やたて》を持っていた。忠次が懐《ふところ》から、鼻紙の半紙を取り出した。それを喜蔵が受取ると、長脇差を抜いて、手際《てぎわ》よくそれを小さく切り分けた。そうして、一片《ひときれ》ずつみんなに配った。
 先刻《さっき》からの経路を、一番|厭《いや》な心で見ていたのは稲荷《いなり》の九郎助《くろすけ》だった。彼は年輩から云っても、忠次の身内では、第一の兄分でなければならなかった。が、忠次からも、乾児からも、そのようには扱われていなかった。去年、大前田の一家と一寸した出入《でいり》のあった時、彼は喧嘩場から、不覚にも大前田の身内の者に、引っ担《かつ》がれた。それ以来、彼は多年|培《つちか》っていた自分の声望がめっきり[#「めっきり」に傍点]落ちたのを知った。自分から云えば、遙《はる》かに後輩の浅太郎や喜蔵に段々|凌《しの》がれて来た事を、感じていた。そればかりでなく、十年前までは、兄弟同様に賭場《とば》から賭場を、一緒に漂浪して歩いた忠次までが、何時となく、自分を軽《かろ》んじている事を知った。皆は表面こそ『阿兄《あにい》! 阿兄!』と立てているものの、心の裡では、自分を重んじていないことが、ありありと感ぜられた。
 入れ札と云う声を聴いたとき、九郎助は悪いことになったなあと思った。今まで、表面だけはともかくも保って来た自分の位置が、露骨に崩《くず》されるのだと思うと、彼は厭な気がした。十一人居る乾児の中で自分に入れてくれそうな人間を考えてみた。が、それは弥助の他《ほか》には思い当らなかった。弥助も九郎助と同様に、古い顔であって、後輩の浅太郎や、喜蔵などが、グングン頭を擡《もた》げて来るのを、常から快からず思っているから、こうした場合には、きっと自分に入れてくれるだろうと思った。が、弥助だけは自分に入れてくれるとしても、弥助の一枚だけで、三人の中に這入《はい》ることは考えられなかった。浅太郎には四枚入るだろうと思った。喜蔵に三枚入るとして、十一枚の中、後へ四枚残る。その中、自分の一枚をのけると三枚残る。もし、その中、二枚が、自分に入れられていれば、三人の中に加わることは出来るかも知れないと思った。が、弥助の他に、自分に入れてくれそうな人は、どう考えても当がなかった。ひょっと[#「ひょっと」に傍点]したら、並川《なみかわ》の才助がとも思った。あの男の若い時には、可成り世話を焼いてやった覚えがある。が、それは六七年も前のことで、今では『浅阿兄、浅阿兄』と、浅にばかりくっ付いている。そう思うと、弥助の入れてくれる一枚の他には、今一枚を得る当《あて》は、どうにもつかなかった。乾児の中で年頭《としがしら》でもあり、一番兄分でもある自分が、入れ札に落ちることは――自分の信望が少しも無いことがまざまざと表われることは、もう既定の事実のように、九郎助には思われた。不愉快な寂しい感じに堪《た》えられなくなって来た。
 一本しか無い矢立の筆は、次から次へと廻って来た。
「おい! 阿兄! 筆をやらあ」
 ぼんやり考えていた九郎助の肩を、つつきながら横に居た弥助が、筆を渡してくれた。弥助は筆を渡すときに、九郎助の顔を見ながら、意味ありげに、ニヤリと笑った。それは、たしかに好意のある微笑だった。『お前を入れたぜ』と云うような、意味を持った微笑であるように九郎助は思った。そう思うと、九郎助は後のもう一枚が、どうしても欲しくなった。後の一枚が、自分の生死の境、栄辱の境であるように思われた。忠次に着いて行ったところで、自分の身に、いい芽が出ようとは思われなかったが、入れ札に洩れて、年甲斐《としがい》もなく置き捨てにされることがどうしても堪《たま》らなかった。浅太郎や喜蔵の人望が、自分の上にあることが、マザマザと分ることが、どうしても堪らなかった。
 かれは、筆を持ってぼんやり考えた。
「おい! 阿兄! 早く廻してくんな!」
 横に坐っている浅太郎が、彼に云った。阿兄! と云いながらも、語調だけは、目下を叱《しっ》しているような口調だった。九郎助は、毎度のことながらむっ[#「むっ」に傍点]とした。途端に、相手に対する烈しい競争心が――嫉妬《しっと》がムラムラと彼の心に渦巻いた。
 筆を持っている手が、少しブルブル顫《ふる》えた。彼は、紙を身体で掩《おお》いかくすようにしながら、仮名で『くろすけ』と書いた。
 書いてしまうと、彼はその小さい紙片をくるくると丸めて、真中に置いてある空《から》になった割籠《わりご》の蓋《ふた》の中に入れた。が、入れた瞬間に、苦い悔悟が胸の中に直ぐ起った。
「賭博《ばくち》は打っても、卑怯《ひきょう》なことはするな。男らしくねえことはするな」
 口癖のように、怒鳴る忠次の声が、耳のそばで、ガンガン鳴りひびくような気がした。彼は皆が自分の顔を、ジロジロ見ているような気がして、どうしても顔を上げることが出来なかった。
 吉井の伝助は、無筆だったので、彼は仲よしの才助に、小声で耳打ちしながら、代筆を頼んだ。
 皆が、札を入れてしまうと、忠次が、
「喜蔵! お前読み上げてみねえ!」と言った。
 皆は、緊張のために、眼を輝かした。過半数のものは諦《あきら》めていたが、それでも銘々、うぬぼれは持っていた。壺皿を見詰めるような目付で、喜蔵の手許《てもと》を睨《にら》んでいた。
「あさ[#「あさ」に傍点]、ああ浅太郎の事だな、浅太郎一枚!」
 そう叫んで喜蔵は、一枚、札を別に置いた。
「浅太郎二枚!」彼は続いてそう叫んだ。
 又、浅太郎が出たのである。浅太郎が、この二三年忠次の信任を得て、影の形に付き従うように、忠次が彼を身辺から放さなかったことは、乾児《こぶん》の者が皆よく知っていた。浅太郎の声がつづくと、忠次の浅黒い顔に、ニッと微笑が浮んだ。
「喜蔵が一枚!」
 喜蔵は、自分の名が出たのを、嬉《うれ》しそうに、ニコリと笑いながら叫んで、
「嘘じゃねえぞ!」と、付け足しながら、その紙を右の手で高く上げて差し示した。
「その次ぎが又、喜蔵だ!」
 喜蔵は得意げに、又紙札を高く差上げた。
「嘉助が一枚!」
 第三の名前が出た。忠次は、心の中で、私《ひそか》に選んでいる三人が、入札の表に現われて来るのが、嬉しかった。乾児達が自分の心持を、察していてくれるのが嬉しかった。
「何だ! くろすけ[#「くろすけ」に傍点]。九郎助だな。九郎助が一枚!」
 喜蔵は、声高く叫んだ。九郎助は、顔から火が出るように思った。生れて初めて感ずるような羞恥《しゅうち》と、不安と、悔恨とで、胸の裡《うち》が掻《か》きむしられるようだ。自分の手蹟《しゅせき》を、喜蔵が見覚えては、いはしないかと思うと、九郎助は立っても坐っても居られないような気持だった。が、喜蔵は九郎助の札には、こだわっていなかった。
「浅が三枚だ! その次は、喜蔵が三枚だ!」
 喜蔵は大声に叫びつづけた。札が次ぎ次ぎに読み上げられて、喜蔵の手にたった一枚残ったとき、浅が四枚で、喜蔵が四枚だった。嘉助と九郎助とが、各自一枚ずつだった。
 九郎助は、心の裡で懸命に弥助の札が出るのを待っていた。弥助の札が出ないことはないと思っていた。もう一枚さえ出れば、自分が、三人の中に入るのだと思っていた。
 が、最後の札は、彼の切《せつ》ない期待を裏切って、嘉助に投ぜられた札だった。
「さあ! みんな聞いてくれ! 浅と喜蔵とが四枚だ。嘉助が二枚だ。九郎助が一枚だ。疑わしいと思う奴は、自分で調べて見るといいや」喜蔵は最後の決定を伝えながら、一座を見廻した。
 誰も調べて見ようとはしなかった。誰よりも先に、九郎助はホッと安心した。
 忠次は自分の思い通りの人間に、札が落ちたのを見ると満足して、切り株から、立ち上った。
「じゃ、みんな腑《ふ》に落ちたんだな。それじゃ、浅と喜蔵と嘉助とを連れて行こう。九郎助は、一枚入っているから連れて行きたいが、最初《はな》云った言葉を変改《へんがい》することは出来ねえから、勘弁しな。さあ、先刻《さっき》からえろう[#「えろう」に傍点]手間を取った。じゃ、みんな金を分けて銘々に志すところへ行ってくれ」
 乾児の者は、忠次が出してあった裡から、銘々に十二両ずつを分けて取った。
「じゃ、俺達は一足先に行くぜ」忠次は選まれた三人を、麾《さしまね》くと、みんなに最後の会釈をしながら、頂上の方へぐんぐんと上りかけた。
「親分、御機嫌《ごきげん》よう。御機嫌よう」
 去って行く忠次の後から、乾児達は口々に呼びかけた。
 忠次は、振り向きながら、時々、被《かぶ》っている菅笠《すげがさ》を取って振った。その長身の身体は、山の中腹を掩《おお》うている小松林の中に、暫《しばら》くの間は見え隠れしていた。
 取り残された乾児達の顔には、それぞれ失望の影があった。
「浅達が付いていりゃ、大した間違はありゃしねい!」
 口々に同じようなことを云った。が、やっぱり、銘々自分が入れ札に洩《も》れた淋《さび》しさを持っていた。
 が、忠次達の姿が見えなくなると、四五人は諦《あきら》めたように、草津の方へ落ちて行った。
 九郎助は、忠次と別れるとき、目礼したままじっと考えていた。落選した失望よりも、自分の浅ましさが、ヒシヒシ骨身に徹《こた》えた。札が、二三人に蒐《あつ》まっているところを見ると、みんな親分の為を計って、浅や喜蔵に入れたのだ。親分の心を汲《く》んで、浅や喜蔵を選んだのだ。そう思うと、自分の名をかいた卑しさが、愈々《いよいよ》堪《た》えられなかった。
 朝の微風が吹いて来て、入れ札の紙が、熊笹《くまざさ》を離れて、ひらひらと飛びそうになった。
「ああ、こんなものが残っていると、とんだ手がかりにならねえとも限らねえ」
 そう云いながら、九郎助は立ち上って散《ちら》ばっている紙片を取り蒐めると、めちゃめちゃに引き断《ちぎ》って投げ捨てた。九郎助の顔は、凄《すご》いほどに蒼《あお》かった。
「俺《おらあ》、秩父《ちちぶ》の方へ落ちようかな」
 九郎助は独言《ひとりごと》のように云った。彼は仲間の誰とも顔を合しているのが厭だった。秩父に遠縁の者が居るのを幸に、其処《そこ》で百姓にでもなってしまいたかった。
 彼は、草津へ行った連中とは、反対に榛名《はるな》の西南の麓《ふもと》を目ざして、ぐんぐん山を降りかけた。
 彼が、二三町も来たときだった。後から声をかけるものがあった。
「おい阿兄《あにい》! 稲荷《いなり》の阿兄!」
 彼は、立ち止って振り顧《かえ》った。見ると、弥助が、息を切らしながら、追いかけて来たのであった。彼は弥助の顔を見たときに、烈《はげ》しい憎悪《ぞうお》が、胸の裡に湧《わ》いた。大切な場合に自分を裏切っていながらまだ身の振方をでも相
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