入れ札
菊池寛

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)上州《じょうしゅう》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)関東|縞《じま》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)叱※[#「口+它」、第3水準1−14−88]《しった》
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 上州《じょうしゅう》岩鼻《いわはな》の代官を斬《き》り殺した国定忠次《くにさだちゅうじ》一家の者は、赤城山《あかぎやま》へ立て籠《こも》って、八州の捕方《とりかた》を避けていたが、其処《そこ》も防ぎきれなくなると、忠次を初《はじめ》、十四五人の乾児《こぶん》は、辛《ようや》く一方の血路を、斫《き》り開いて、信州路へ落ちて行った。
 夜中に利根川《とねがわ》を渡った。渋川の橋は、捕方が固めていたので、一里ばかり下流を渡った。水勢が烈《はげ》しいため、両岸に綱を引いて渡ったが、それでも乾児の一人は、つい手を離したため流されてしまった。
 渋川から、伊香保《いかほ》街道に添うて、道もない裏山を、榛名《はるな》にかかった。一日、一晩で、やっと榛名を越えた。が、榛名を越えてしまうと、直《す》ぐ其処に大戸《おおど》の御番所があった。
 信州へ出るのには、この御番所が、第一の難関であった。この関所をさえ越してしまえば、向うは信濃境《しなのざかい》まで、山又山が続いているだけであった。
 忠次達が、関所へかかったのは、夜の引き明けだった。わずか、五六人しか居ない役人達は、忠次達の勢《いきおい》に怖《おそ》れたものか、彼等の通行を一言も咎《とが》めなかった。
 関所を過ぎると、さすがに皆は、ほっと安心した。本街道を避けて、裏山へかかって来るに連れて、夜がしらじらと明けて来た。丁度上州一円に、春蚕《はるご》が孵化《かえ》ろうとする春の終の頃であった。山上から見下すと、街道に添うた村々には、青い桑畑が、朝靄《あさもや》の裡《うち》に、何処《どこ》までも続いていた。
 関東|縞《じま》の袷《あわせ》に、鮫鞘《さめざや》の長脇差《ながわきざし》を佩《さ》して、脚絆《きゃはん》草鞋《わらじ》で、厳重な足ごしらえをした忠次は、菅《すげ》のふき下しの笠を冠《かぶ》って、先頭に立って、威勢よく歩いていた。小鬢《こびん》の所に、傷痕《きずあと》のある浅黒い顔が、一月に近い辛苦で、少し窶《やつ》れが見えたため、一層|凄味《すごみ》を見せていた。乾児も、大抵同じような風体《ふうてい》をしていた。が、忠次の外は、誰も菅笠を冠ってはいなかった。中には、片袖《かたそで》の半分|断《ちぎ》れかけている者や、脚絆の一方ない者や、白っぽい縞の着物に、所々血を滲《にじ》ませているものなども居た。
 街道を避けながら、しかも街道を見失わないように、彼等は山から山へと辿《たど》った。大戸の関から、二里ばかりも来たと思う頃、雑木の茂った小高い山の中腹に出ていた。ふと振り顧《かえ》ると、今まで見えなかった赤城が、山と山の間に、ほのかに浮び出ていた。
「赤城山も見収めだな。おい、此処《ここ》いらで一服しようか」
 そう云いながら、忠次は足下に大きい切り株を見付けて、どっかりと、腰を降した。彼の眼は、暫《しば》らくの間、四十年見なれた懐《なつか》しい山の姿に囚《とら》われていた。赤城山が利根川の谿谷《けいこく》へと、緩《ゆる》い勾配《こうばい》を作っている一帯の高原には、彼の故郷の国定村も、彼が売出しの当時、島村伊三郎を斬った境の町も、彼が一月前に代官を斬った岩鼻の町もあった。
 国越《くにごえ》をしようとする忠次の心には、さすがに淡い哀愁が、感ぜられていた。が、それよりも、現在一番彼の心を苦しめていることは、乾児の始末だった。赤城へ籠った当座は、五十人に近かった乾児が、日数が経《た》つに連れ、二人三人|潜《ひそ》かに、山を降《くだ》って逃げた。捕方の総攻めを喰《く》ったときは、二十七人しか残っていなかった。それが、五六人は召捕られ、七八人は何処ともなく落ち延びて、今残っている十一人は、忠次のためには、水火をも辞さない金鉄の人々だった。国を売って、知らぬ他国へ走る以上、この先、あまりいい芽も出そうでない忠次のために、一緒に関所を破って、命を投げ出してくれた人々だった。が、代官を斬った上に、関所を破った忠次として、十人余の乾児を連れて、他国を横行することは出来なかった。人目に触れない裡に、乾児の始末を付けてしまいたかった。が、みんなと別れて、一人ぎりになってしまうことも、いろいろな点で不便だった。自分の目算通《もくさんどおり》に、信州|追分《おいわけ》の今井小藤太の家に、ころがり込むにしたところが、国定村の忠次と
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