た。藤十郎は、昔から、お梶を知っている。若衆方の随一の美形と云われた藤十郎が美しいか、歌妓のお梶が美しいかと云う物争いは、二十年の昔には、四条の茶屋に遊ぶ大尽達の口に上った事さえある。その頃からの馴染《なじみ》である。が、藤十郎は、今までに、お梶の姿を心にとめて、見たこともない。ただ路傍の花に対するような、淡々たる一|瞥《べつ》を与えていたに過ぎなかった。
が、今宵《こよい》は、この人妻の姿が、云い知れぬ魅力を以《もっ》て、ぐんぐんと彼の眼の中に、迫って来るのを覚えた。密夫《みそかお》と云う彼にとっては、未《いま》だ踏んでみた事のない恋の領域の事を、この四五日、一心に思い詰めていた為だろう。今までは余り彼の念頭になかった人妻と云う女性の特別な種類が、彼の心に不思議な魅力を持ち始めて、今お梶の姿となって、ぐんぐん迫って来るように覚えた。
藤十郎のお梶を見詰める眸《ひとみ》が、異常な興奮で、燃え始めたのは無論である。人妻であると云う道徳的な柵《しがらみ》が取払《とりはらわ》れて、その古木が却《かえ》って、彼の慾情を培《つちか》う、薪木《たきぎ》として投ぜられたようである。彼は、娘や後家
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