った。今までの傾城買とは、裏と表のように、打ち変った狂言として、門左衛門が藤十郎に書与えた狂言は、浮ついた陽気なたわいもない傾城買の濡事とは違うて、命を賭《と》しての色事であった。打ち沈んだ陰気な、懸命な命を捨ててする濡事であった。芸題は『大経師《だいきょうじ》昔暦《むかしごよみ》』と云って、京の人々の、記憶にはまだ新しい室町《むろまち》通の大経師の女房おさんが、手代《てだい》茂右衛門《もえもん》と不義をして、粟田口《あわたぐち》に刑死するまでの、呪《のろ》われた命懸けの恋の狂言であった。
 藤十郎の芸に取って、其処《そこ》に新しい世界が開かれた。がそれと同時に、前代|未聞《みもん》の狂言に対する不安と焦慮とは、自信の強い彼の心にも萌《きざ》さない訳には行かなかった。

        五

 藤十郎の心に、そうした屈託があろうとは、夢にも気付かない若太夫は、芝居国の国王たる藤十郎の機嫌《きげん》を、如何《いか》にもして取結ぼうと思ったらしく、
「この狂言に比べましては、七三郎殿の『浅間ヶ嶽』の狂言も童《わらべ》たらしのように、曲ものう見えまするわ。前代未聞の密夫《みそかお》の狂言とは
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