しゃ》った事は、皆本心かいな」
 女の声は、消え入るようであった。その唇が微《かす》かに痙攣《けいれん》した。
「何の、てんごう[#「てんごう」に傍点]を云うてなるものか、人妻に云い寄るからは、命を投げ出しての恋じゃ」と、いうかと思うと、藤十郎の顔も、さっと蒼白《そうはく》に変じてしまった。浮腰になっている彼の膝《ひざ》が、かすかに顫《ふる》いを帯び始めた。
 必死の覚悟を定めたらしいお梶は、火のような瞳で、男の顔を一目見ると、いきなり傍の絹行燈の灯を、フッと吹き消してしまった。
 恐ろしい沈黙が、其処《そこ》にあった。
 お梶は、身体中の毛髪が悉《ことごと》く逆立《さかだ》つような恐ろしさと、身体中の血潮が悉く湧《わ》き立つような情熱とで、男の近寄るのを待っていた。が、男の苦しそうな息遣《いきづか》いが、聞えるばかりで、相手は身動きもしないようであった。お梶も居竦んだまま、身体をわなわなと顫わせているばかりであった。
 突如、藤十郎の立ち上る気勢《けはい》がした。お梶は、今こそと覚悟を定めていた。が、男はお梶の傍を、影のようにすりぬけると、灯のない闇《やみ》を、手探りに廊下へ出たかと思うと、母屋の灯影を目的《めあて》に獣《けもの》のように、足速く走り去ってしまったのである。
        ×
 闇の中に取残されたお梶は、人間の女性が受けた最も皮肉な残酷な辱《はずか》しめを受けて、闇の中に石のように、突立っていた。
 悪戯《いたずら》としては、命取りの悪戯であった。侮辱としては、この世に二つとはあるまじい侮辱であった。が、お梶は、藤十郎からこれ程の悪戯や侮辱を受くる理由《いわれ》を、どうしても考え出せないのに苦しんだ。それと共に、この恐ろしい誘惑の為に、自分の操を捨てようとした――否、殆《ほとん》ど捨ててしまった罪の恐ろしさに、彼女は腸《はらわた》をずたずたに切られるようであった。

        一一

 酒宴の席に帰った藤十郎は、人間の面《かお》とは思えないほどの、凄《すさま》じい顔をしていた。が、彼は、勧められるままに大盃を五つ六つばかり飲み乾《ほ》すと、血走った眼に、切波千寿《きりなみせんじゅ》の方を向きながら、
「千寿どの安堵《あんど》めされい。藤十郎、この度《たび》の狂言の工夫が悉く成り申したわ」と云いながら、声高《こわだか》に笑って見せた。が、その
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