に可なり危険な試金石が横《よこた》わっている。『あれ見よ、密夫の狂言とは、名ばかりで相も変らぬ藤十郎じゃ』と、云われては、自分の芸は永久に廃《すた》れるのだと、彼は心の裡に、覚悟の臍《ほぞ》を堅めていた。ただ、相手の傾城が、人妻に変ったばかりで、昔ながらの藤十郎だとは、夢にも云わせてはならないと、心の裡に思い定めていた。
 が、それかと云って、藤十郎は、自分で口に出して云った通、道ならぬ恋をした覚はさらさらなかったのである。元より、歌舞伎役者の常として、色子《いろこ》として舞台を踏んだ十二三の頃から、数多くの色々の色情生活を閲《けみ》している。四十を越えた今日までには幾十人の女を知ったか分らない。彼の姿絵を、床の下に敷きながら、焦《こが》れ死んだ娘や、彼に対する恋の叶《かな》わぬ悲しみから、清水《きよみず》の舞台から身を投げた女さえない事はない。が、こうした生活にも拘《かかわ》らず、天性|律義《りちぎ》な藤十郎は、若い時から、不義非道な色事には、一指をだに染めることをしなかった。そうした誘惑に接する毎《ごと》に、彼は猛然として、これと戦って来ている。彼が、役者にも似合わず『藤十郎殿は、物堅い御仁じゃ』と、云われて、芝居国の長者として、周囲から、尊敬されているのも、一つにはこうした訳からでもあった。
 従って、彼は、過去の経験から、人妻を盗むような必死な、空恐ろしい、それと同時に身を焼くように烈《はげ》しい恋に近い場合を、色々と尋ねてみたが、彼のどの恋もどの恋も極めて正当な、物柔かな恋であって、冬の海のように恐ろしい恋や、夏の太陽のような烈しい恋の場合は、どう考えても頭に浮んでは来なかった。

        六

 傾城買《けいせいかい》の経緯《いきさつ》なれば、どんなに微妙にでも、演じ得ると云う自信を持った藤十郎も、人妻との呪《のろ》われた悪魔的な、道ならぬ然《しか》し懸命な必死の恋を、舞台の上にどう演活《しいか》してよいかは、ほとほと思案の及ばぬところであった。これまでの歌舞伎狂言と云えば、傾城買のたわいもない戯れか、でなければ物真似《ものまね》の道化に尽きていた為に、こうした密夫《みそかお》の狂言などに、頼《たのま》れるような前代の名優の仕残した型などは、微塵《みじん》も残っていなかった。それかと云って、彼はこうした場合に、打ち明けて智慧《ちえ》を借るべき、相
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