、苦しくて苦しくて、私は思わず立ち上ったのです』
『それから』
『私は唸《うな》ったように思います。それから夢中になってしまいました』
『そうか、夢中になったのか、それであの壁に血がかかっているのは、どうしたのだ』
『私が、苦しまぎれに寄りかかったのです』
『それからどうしたのだ』
『気が付きますと、お主婦《かみ》が私の持っている短刀をもぎとっていたのです』
『なるほどね。そういうわけか。あの錦木という女は、えらい女だな。しかし、そりゃお前、嘘じゃないか。その女が、喉を突いたところを、もう一度いってみんか』
 同じことを、二度いわせるのが、僕らが尋問の常套手段なのです。被告が嘘をいっていれば、きっとそこにつじつまの合わないところができるのです。が、それにしても、喉に傷を持っている被告に二度同じことを繰り返させることが、かなり残酷のように思われないでもなかったのです。が、その当時、僕の熾烈《しれつ》な職務心は、そんな心をすぐ打ち消したのでした。
 それでも、若者は前の陳述と矛盾しないように、同じことを繰り返しました。
『そうかね。その女が、一人でやった! が、お前手伝ってやりはしなかった
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