、一度に六、七円ずつも使うと金が足らなくなるわけだな』
『へえい』
『じゃ、何か別な所で金の工面をしたわけだな』
『へえい』
『誰かから、金の工面をしてもろうたわけだな』
『へえい! 友達から二十円ばかり借りました』
『そのほかにないか』
『親から十円借りました』
『うむ。合して三十円だな。そのくらいの借金なら、払えないという借金じゃないな』
『へえい』
『一体、どうしてこんなことをやった』
 若者は、しばらく考え込んでいたようでしたが、急に咳き込んで来たかと思うと、泡のような血を口から吐き出しました。気管の傷のために、血が口の中に洩れるのです。
 僕は、自分の尋問が、この青年の容体を険悪にしはしないかと思ったので、警察医にききますと、彼は平気な顔をして、
『何! 大丈夫です。どんなことをしたって、命に別条はありません。御心配なくお続け下さい』といいました。
 僕は、それに安心して改めて若者にいいました。
『そら、そんな風に考えたら駄目だよ。あっさりいうのだよ、あっさり』
 若者は、唇の周囲についた血を鼻紙で拭きながら、
『私は、今年は兵にかかっとりますので、入営するまでには金でも溜めて、両親も欣ばせようと思っていましたのに、こんなことで金は溜りませんし、借金はできるし、それにあの女も可哀そうな女で、国へ一度母親の見舞いに帰りたい帰りたいいうておりましたけれど、帰れんような始末で、いっそ死んでしもうたらという、相談になりましたんで』
『うむ。それで一緒に死ぬ相談をしたのか。しかし借金だといって、わずかばかりの金じゃないか。それに、女がそれほど、国に帰りたいのなら、お前が連れて帰ってやればいいじゃないか。何も遠い所ではなし、鳥取じゃないか』
『へえい! それがそうはいきませんので。まったく』
『そうかね、お前のいうことも、一応もっともに思えるが、ただそれだけで死んだというのは、どうも俺の腑《ふ》に落ちないんだが。考えないで、さっぱりいうてみんか。考えていうと嘘になっていかん』
 そういいますと、若者はその蒼白の顔に、ちょっと血の気を湛えながらいいました。
『命を投げ出してやりましたけに、嘘なんか決して申しません』
 相手は少し激したが、僕は冷然たる態度をもっていいました。
『そうかね。そんなら、それでいいが、俺にはどうも腑に落ちないんだがね。俺の腑に落ちんということは、つまり話している方のお前の心に、何か蟠《わだかま》りがあるんじゃないかね。こんな時に、本当のことがいえんようじゃ、男として恥じゃないか。何か別にわけがあるんだろう。何か悪いことでもしたんじゃないか』
『いいや、決して悪いことなんか』と、若者は急《せ》き込んで答えると同時に、傷口からまた血が洩れたのでしょう、苦しそうに咳き込みました。僕の心持は、その時もう職業的意識でいっぱいになっていて、青年が苦しがっても、最初ほどの同情は湧きませんでした。そればかりでなく、僕は、相手がかなり執拗なので、尋問の方向を急に変えてみました。
『じゃ、それはそれとしておいて、一体どちらが先にやったのか、お前の方か、それとも女の方か』
『あたしが先へ死ぬといいまして、女が先に短刀を喉へ突き刺してから、今度は畳へ突きさして私にくれました』
『うむ、なるほど、それで一体女はどんな風に突いたんだ』
『それは、あの女が、刃の方を上に向けて、喉へ突き刺すと、血がだらりと流れました』
『その短刀を握った手は、右かい左かい』
『右です』
『そうかい。それからどうした』
『それから、私が短刀を受け取って、一突き刺したのですが、苦しくて苦しくて、私は思わず立ち上ったのです』
『それから』
『私は唸《うな》ったように思います。それから夢中になってしまいました』
『そうか、夢中になったのか、それであの壁に血がかかっているのは、どうしたのだ』
『私が、苦しまぎれに寄りかかったのです』
『それからどうしたのだ』
『気が付きますと、お主婦《かみ》が私の持っている短刀をもぎとっていたのです』
『なるほどね。そういうわけか。あの錦木という女は、えらい女だな。しかし、そりゃお前、嘘じゃないか。その女が、喉を突いたところを、もう一度いってみんか』
 同じことを、二度いわせるのが、僕らが尋問の常套手段なのです。被告が嘘をいっていれば、きっとそこにつじつまの合わないところができるのです。が、それにしても、喉に傷を持っている被告に二度同じことを繰り返させることが、かなり残酷のように思われないでもなかったのです。が、その当時、僕の熾烈《しれつ》な職務心は、そんな心をすぐ打ち消したのでした。
 それでも、若者は前の陳述と矛盾しないように、同じことを繰り返しました。
『そうかね。その女が、一人でやった! が、お前手伝ってやりはしなかった
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