手の軍勢は数十万余にて候……(中略)江戸様よりの御詫に、切利支丹の百牲|原《ばら》に侍衆そこなはせ候こと、いらざる儀と思召され候間、柵の所に丈夫に仰付けられほし殺しになされ候やうにと仰聞かされ候。
一、(前略)城より落つるもの三四人御座候処に、命を御助けなされ、其上金銀を下され、剰《あまつさ》へその在所の内にて当年は作り取に仕《つかまつ》り(後略)
一、天下様仰出でられ候は(中略)、切利支丹の儀は、当歳子によらず御果しなされ候に相定め申し候。いま発起に附きて(中略)無理に切利支丹に勧められ罷《まか》り成り候は、聞召し届けられ、御助けなさる可く候事、上意の由に御座候(中略)勿論切利支丹宗の儀|相背《あいそむ》き難く存じ候者は、籠舎仕り相果て候とも、その段は銘々次第と存じ候。(後略)
一、城中大将四郎と申す儀、隠れなく候。その年来を聞召し候へば、十五六にて諸人を勧め、斯様《かよう》の儀を取立て申す儀にては無之《これなく》候と思召し候条、四郎が名を借り取立て申すもの有之《これあり》と思召し候。左様の事に候はゞ、大将四郎にて御座候とも、罷り出でたる者これ在るに於ては、御赦免罷り成る可きの由に御座候事。
一、我等ども此《かく》の如きの身上に罷り成り、右の通り申し遣し候事、相果て候を迷惑に存じ申入る様に思召され御心中御恥しく存じ候。ゆめ/\左様にては御座なく候。(中略)城中より出で申し度しと申す者ども御出し候はゞ、御断りを申し城中へ参り、一処に相果て申す可く候。(後略)
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 言々誠意の溢れるのを見る事が出来る。この手紙と同時に、四郎の母と姉からも、城中の甚兵衛、四郎宛に、同趣旨の手紙を送って居る。四郎の母は法名をマルタと称し、四郎旗挙げに際して、熊本藩の手に捕われたのだが、母の為に臆するなく存分に働けと四郎へ云い送った程の女丈夫である。
 しかし事ここに至っては肉身の情に打ち勝ち難かったものと見える。
 この二つの手紙の返事は即日城内より齎された。それには「各々御存知の如く他宗の者を無理に切利支丹にして居る事は無い。満城の衆みな身命を天主に捧げる覚悟までである」
 と書かれてあった。
 事実城を抜けた者は三万人中前後数名に過ぎず、信仰の力は、天下の勢を前にして懼れなかったのである。
 この後信綱自ら四郎へ、降伏すべき手紙を送ったが、四郎の返書には、松倉氏の暴政を綿々として訴え、信仰の変え難きを告げ、
「みな極楽安養すべきこと、何ぞ疑ひこれあるべく候|哉《や》、片時も今生の暇、希《こいねが》ふばかりに候」と結んで居る。
 智慧伊豆の謀略をもってしても、今は決戦する丈の道しか残されて居なかった。
 十日頃、城中に於て度々太鼓が鳴り響いて舞踊をして歌を歌う者がある。寄手耳を傾けて聴いてみると次の様な文句である。
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かゝれ、かゝれ、寄衆《よせしゅう》もつこてかゝれ、寄衆鉄砲の玉のあらん限りは、
とんとと鳴るは、寄衆の大筒、ならすとみしらしよ、こちの小筒で、
有りがたの利生《りしょう》や、伴天連様の御影で、寄衆の頭を、すんと切利支丹。
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 十一日、寄手は、地下より角道を掘って城際《しろぎわ》に到ろうと試みると、城の方でも地下道を掘って来る始末である。日暮れた頃、城中三の丸辺から火が挙がるのを寄手見て失火であろうと推測したが、豈《あに》計らんや生木生草を焼いて、寄手の地下道をくすべて居たのであった。
 其後、この地下道へ、糞尿を流し込んで、寄手をして辟易《へきえき》せしめたりした。楠《くすのき》流の防戦ぶりには信綱以下大いに困却したに相違ない。信綱は止むなく城中を探ろうと、西下途次、近江甲賀から連れて来た忍びの者達に、探らしめたが、城内の者は皆切利支丹の文句を口にするので、一向心得のない忍びの者達は、城中にまぎれ住む事が出来ない。これも亦失敗であった。
 さて籠城軍も、寄手の持久の策に困惑して来た。四郎時貞、五奉行等と議して、
「我が弾丸兵糧も残少なくなって来た。我軍の力|猶《なお》壮んなる今、敵営を襲って、武器糧米を奪うに如くはない。細川の陣は塁壁堅固の上に銃兵多いから、之を討てば味方に死傷が多かろう。有馬、立花の陣は地形狭くして馳駆するに利なく、結局特に鍋島、寺沢、黒田の三陣を襲わん。出づる時には刀槍の兵を前にし、退く時は銃隊を後にし、かけ言葉はマルと相呼ばん」と定めた。
 二十一日の夜、朧《おばろ》月夜に暗い二の丸の櫓《やぐら》に、四郎出で立って、静かに下知を下した。
 黒田の陣へは、蘆塚忠兵衛、大江の源右衛門、布津の大右衛門、深江の勘右衛門以下千四百、寺沢の営へは、相津玄察、大矢野三左衛門、有馬の治右衛門始め六百人、池田清左衛門、千々岩の五郎左衛門、加津佐の三平以下一千人は鍋島の営へ、夫々粛々と進み近づくや、一斉に鬨を挙げ火を竹束につけたのを投げ込んだ。
 用心はして居ても不意の夜襲であるから、黒田藩の家老黒田監物は討たれて形勢非であったが、黒田隆政自ら槍を揮って宗徒三人を突伏せ更に、刀を執って進み、「隆政これに在り」と叫んで衆を励まして漸く追い払った。
 監物の子作左衛門、松炬《たいまつ》を照して父の屍《かばね》を見て居たが、自らも従士五六十を率いて突入して果てたと云う。
 寺沢の陣でも騒動したが、三宅藤右衛門、白柄の薙刀《なぎなた》を揮って三人を斬り、創《きず》を被るも戦うのを見て諸士亦奪戦して斥けた。藤右衛門は、本戸の役に自刃した藤兵衛の子であるから仇討ちをしたわけになる。宗徒勢を討つこと三百人余であった。
 信綱、氏鉄、夜討ちの現場を視察して、城兵の死骸の腹を割《さ》かしめて検した処が、海草の類を見出した。これによって、城内の兵糧少ないのを知ったのである。

       聖旗原城頭※[#「てへん+確のつくり」、第4水準2−13−36]落之事

 城中の糧食尽きたのを知った信綱は、諸将を会して攻撃の方略を議した。其頃、上使の一人として出陣した水野日向守|勝成《かつしげ》は、「我若き時、九州に流浪して原城の名城なるを知る。神祖家康公が高天神城を攻めた時の如く、兵糧攻めに如くはない」
 と云いも終らず、戸田氏鉄は、
「然らば糧尽くるを待とう」
 と云った。勝成大声に、
「既に今日まで百日余の遠巻きをした。糧尽きたのは明かだ、今はただ攻めんのみ」
 と怒号した。
 氏鉄は又、
「さらば城に近い細川鍋島の勢をして攻め、他は鬨を合しめよう」と云うと、勝成嘲笑って、
「我十六歳にして三州|小豆坂《あずきざか》に初陣《ういじん》して以来五十余戦、未だ鬨の声ばかりで鶏軍した覚えがない。諸軍力を協《あわ》せずして如何《いかん》ぞ勝とうや。老人の長居は無用、伜美作守勝俊も大阪陣大和口にて、後藤又兵衛出張の時名を挙げた者だ。御相談の役には立つ筈」と云い棄てて起って仕舞った。
 ここに於て、軍議は二十五日総攻撃と定《きま》ったのである。当時城内の武備の有様を見るに石火矢八十挺、二三十目玉から五十目玉までの大筒百挺、十匁玉より二十目玉までの矢風筒《やかぜづつ》三百挺、六匁玉筒千挺、弓百張、長柄五百本、槍三百本、具足二百領、其他とあるから、相当なものである。
 さて期日の二十五日も、その翌日も雨なので、攻撃を延期して居る中、二十七日の昼頃、突然鍋島の一隊が命を待たずして攻撃に移った旨を、本営に告げる者があった。信綱楼に昇って望むと告ぐるが如くである。「火を挙ぐるを見て起き、鐘を聴いて飯し、鼓《つづみ》を聴いて進み、貝を聴いて戦え」と云う軍令も今は無駄になった。信綱即ち、直ちに全軍に進撃を命じた。
 先駆けを試みた鍋島勢を目付して居るのは榊原職充であるが、総攻撃令近づくや先登したくて堪《たま》らず、鍋島勝茂に向って、「公等は皆陣を布いて柵を設けて居る。我等は軍目付の故をもって寸尺の地もないが、愚息|職信《よりのぶ》始め従士をして柵を結ぶ事を学ばしめたいから」と云って割込んで仕舞った。職信年十七の若武者で秘かに従士七八人と共に、城の柵を越えて入った。見覚えのある上に赤の布に白い餅の指物が、城を乗り越えて行くのを見て、流石の職充も驚いた。直ちに白に赤い丸二つの指物がその後を追う事になる。
 一番驚いたのは鍋島勢である。信綱の命を伝うべき軍目付親子が敵城へ乗入れたのだから、今はとかくの場合ではないと、軍勢一同に動いて、鍋島勝茂の上白《うえしろ》下黒筋違いの旗も、さっと前へ進んだ。鍋島勢が信綱の命に反して先駆したのではなくて、軍目付自ら軍律に反した始末なのである。
 この職充は平常士を好んで、嘗つて加藤清正、福島正則等、国を除かれ家を断たれた時、その浪士数十人を引取った程である。この時の戦いにこの浪士達が日頃の恩顧を報じて功を立てて居る。
 水野勝成は、鍋島先登の事を聞くや、五千の軍を整えて、子勝俊の来るのを待った。
 勝俊白馬に乗り、金の旗掲げて来ると、五千の兵勇躍して進んだ。
 勝俊は馬上に叱咤《しった》して、
「鍋島勢を排して進め」と命じた。
 城外の地勢険阻な処に来ると、馬を棄てて子の伊織十四歳になるのを伴って進んだ。激戦なので、掲げる金の旗印が悉く折れ破れた。旗奉行神谷|杢之丞《もくのじょう》、漸く金の旗を繕って、近藤兄弟をして、崖を登って掲げしめた。
 城外に在った勝成は、
「大阪の役に児子の功を樹《た》てた事があったが、今日児孫の先登を見る」と云って涙を流して喜んだ。
 細川越中守忠利は、地白、上に紺の九曜の紋ある旗を掲げ、狸々緋《しょうじょうひ》の二本しないの馬印を立て、黒白段々の馬印従えた肥後守光利と共に、三の丸前門を攻撃した。
 先鋒の部将長岡式部、城中に烟が起るのを見て、直ちに前門に進撃した。
 奥野伝右衛門なる士が刀を揮って門を破り開いた。前兵悉く城内へ行ったが、城の部将大塚四郎兵衛、相津左兵衛三千五百の人数で門を守って居るのと衝突した。西門を、有江掃部五百で守って居たのが、式部を見て、槍を並べて突出した。武部の軍奮戦して斥け、逃げるのを追った。
 黒田忠之、同長興、同隆政は、大江門を目指して進んだが、忠之は余り急いだので甲を着けて居る暇がない。老臣黒田|睡鴎《すいおう》追い付いて諫めたので、鎧は着けたが、猶|冑《かぶと》を冠らない。
 冑を冠ると左右が見えない等《など》と理屈を云い乍ら進むと、城の部将本渡の但馬五千を以て逆襲し、その勢いは猛烈である。
 為に黒田勢三百余忽ち討たれて少しく郤《しりぞ》くのを、忠之怒って、中白|上下《うえした》に紺、下に組みの紋ある旗を進め励ます。睡鴎は然るに自若として牀に坐して動こうとしない。
 忠之、「如水公の時屡々武功あったと云うが老耄《おいぼ》れたのか」と罵って之を斬ろうとする処に弟隆政現れて漸く止めた。睡鴎暫く四方を観望して居たが、忽ち大喝《たいかつ》して軍を進めついに大江門を抜いた。
 もう此頃には、三の丸池尻門辺に、上白下黒白黒の釘貫《くぎぬき》の旗や、白い鳥毛《とりげ》二つ、団子の馬印が立てられて、有馬|豊氏《とようじ》、同忠郷の占拠を示し、三の丸田尻門辺には立花忠茂の上白下黒、黒の処に紋ある旗や、松倉重次の黒に中朱筋一つの旗が眺められた。
 二の丸辺に、熊毛二段の団子、下に金の団子の馬印が動くのは、寺沢忠高が乗り込んで居るからであり、その後に、赤い旗が進むのは、小笠原忠政、同長次が進みつつあるからである。
 信綱の子輝綱は、従士十数名と共に、馬印も掲げず秘かに城へ向うを、地白紋登りはしごの総帥旗の下に、地白紋赤き丸三つの旗掲げた戸田氏鉄と共に、本営に指揮して居る信綱に見付かった。信綱軍令に反すとなして、酒井三十郎を遣《や》って止めるが聴かない。岩上《いわかみ》角之助行って、鎧の袖を掴んで放さないので、輝綱は怒って斬ろうとした。角之助は、敵手に斃れんより公の手に死なんと云って猶も放さない。遂いに止められた。
 信綱は徒らに兵を損ずるを憂えて、諸軍に令して、各々占拠の地に陣を取り、夜明けを待つことを命じた。
 陣中の
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