津浦の一郎兵衛、下津浦の治右衛門、島子の弥次兵衛以下三千七百人、部将皆郷士豪農の類《たぐい》である。総大将四郎時貞は相津玄察、下津浦の次兵衛と共に二百の麾下《きか》を従えて中軍に在った。陣中悉く白旗を掲げ十字架を画いた。「山野悉く白旗に満ち、人民皆十字架を首に懸けるであろう」と云ったバテレンの予言は、此処に実現したわけである。城は二の丸まで押し破られたが、城兵も殊死して防ぎ、寄手の部将加津佐の三郎兵衛を斃したりした。既に城も危くなった頃、四郎時貞は不意に囲を解き、軍船海を圧して、島原に帰って行った。江戸幕府急を知って、征討の軍|来《きた》る事近しとの報を受けたからであった。
板倉重昌憤死之事
江戸慕府へ九州動乱の急を、大阪城代が報じたのは寛永十四年十一月十日の事である。大老酒井忠勝、老中松平信綱、阿部忠秋、土井利勝等の重臣、将軍家光の御前で評定して、会津侯保科|正之《まさゆき》を征討使たらしめんと議した。家光は東国の辺防を寛《ゆる》うすべからずと云って許さず、よって板倉内膳正|重昌《しげまさ》を正使とし、目付|石谷《いしたに》十蔵貞清を副使と定めた。両使は直ちに家臣を率いて出府した。上使の命に従うこととなった熊本の細川光利、久留米侯世子有馬|忠郷《たださと》、柳川侯世子立花忠茂、佐賀侯弟鍋島元茂等も相次いで江戸を立ったのであった。
さて天草から島原へ軍を返した四郎時貞は、島原富岡の両城を攻めて抜けない中に、既に幕軍が近づいたので、此上は何処か要害を定めて持久を謀るより外は無い、と断じた。口津村の甚右衛門は、嘗つて有馬氏の治政時代に在った古城の原を無二の割拠地として勧め、衆みな之に同じたから、いよいよ古城を修復して立籠る事になった。口津村の松倉藩の倉庫に有った米五千石、鳥銃二千、弓百は悉く原城に奪い去られた。上使が有江村に着陣した十二月八日には、原城は準備整って居たのである。
城の総大将は勿論天草四郎時貞であるが、その下に軍奉行として、元有馬家中の蘆塚《あしづか》忠兵衛年五十六歳、松島半之丞年四十、松倉家中医師|有家久意《ありやひさとも》年六十二、相津玄察年三十二、布津の太右衛門年六十五、参謀本部を構成し、益田好次、赤星主膳、有江|休意《よしとも》、相津宗印以下十数名の浪士、評定衆となり、目付には森宗意、蜷川《にながわ》左京、其他、弓奉行、鉄砲奉行、使番等数十名の浪士之を承った。加津佐、堂崎、三会、有馬、串山、布津、有家、深江、安徳、木場、千々岩、上津浦、大矢野、口野津、小浜等十数ヶ村の庄屋三十数名が物頭役として十軍に分った総勢二万七千、老若婦女を合せると三万を越す人数を指揮した。
上意をもって集る官軍は、鍋島元茂の一万、松倉重次の二千五百、立花忠茂の五千、細川光利の一万三千、有馬忠郷の八千を始めとして諸将各々兵を出し、城中の兵数に数倍する大軍である。上使重昌は、鍋島勢を大江口|浜手《はまて》より北へ、松倉勢は北岡口浜の手辺に、有馬勢はその中間に、立花勢は松倉勢の後方近く夫々に布陣した。十二月十九日寄手|鬨《とき》の声を揚げると城中からも同じく声を合せて、少しも周章《あわて》た気色も見えない。重昌、貞清、諸将を集めて明日城攻めすべく評議したが、有馬忠郷と立花忠茂は共に先鋒を争うのを重昌|諭《さと》して忠茂を先鋒と定めた。二十日の黎明《れいめい》、忠茂五千の兵をもって三の丸を攻撃した。家臣立花大蔵長槍を揮って城を攀《よ》じて、一番槍と叫びもあえず、弾丸三つまでも甲《かぶと》を貫いた。忠茂怒って自ら陣頭に立って戦うが、城中では予《かね》てよりの用意充分で、弓鉄砲の上に大石を投げ落すので、寄手の討たれる者忽ち算を乱した。重昌之を見て、松倉重次に応援を命ずると、卑怯の重次は、勝てば功は忠茂に帰し、敗るれば罪我に帰すとして兵を出そうとしない。重昌は忠茂の孤軍奮闘するを危んで、退軍を命ずるが、土民軍に軽くあしらわれた怒りは収らず、なかなか服しようとはせず、軍使三度到って漸く帰陣した。大江口の松山に白旗多く見えるのを目懸けた鍋島勢も、白旗は単なる擬兵であって、勝気に乗じて城へ懸ろうとすると、横矢に射すくめられて、手もなく退いて仕舞った。
籠城軍が堅守の戦法は、なかなか侮り難い上に、寄手の軍勢は戦意が薄い為に、戦局は、一向はかばかしくない。温泉颪《うんぜんおろし》の寒風に徒らに顫《ふる》え乍ら、寛永十四年は暮れて行った。其頃幕府は局面の展開を促す為、新に老中松平伊豆守信綱を上使に命じ既に江戸を発せしめたとの報《しらせ》がなされた。この報《ほう》を受け取った板倉重昌は心秘かに期する処あって、寛永十五年元旦をもって、総攻撃をなすべく全軍に命じた。元旦|寅《とら》の下刻の刻限と定めて、総勢一度に鬨を挙げて攻め上げた。三の丸を打ち破る事は出来たが、城中の戦略は十二月の時と同じく、弾丸弓矢大石の類は雨の如くである。卯の上刻頃には、先鋒有馬勢が崩れたのを切っかけに、鍋島勢、松倉勢、みな追い落された。立花勢は友軍の苦戦をよそに進軍しないから、貞清之を促すと、「諸軍の攻撃によって城は今に陥るであろうが、敵敗走の際に我軍之を追わんが為である。且つ旧臘《きゅうろう》我軍攻撃に際しては諸軍救授を為さなかったから、今日は見物させて戴く事にする」と云う挨拶である。一旦退いた松倉勢も再び攻めようとはしないので、重昌馬を飛ばして、「今度の大事、松倉が平常の仕置き悪しきが故である。天下に恥じて殊死すべき処を、何たる態である」と、詰問したけれども動く気色《けしき》もない。板倉重昌、石谷貞清両人の胸中の苦悩は察するに余りある。重昌意を決して単身駆け抜けようとするのを石倉貞清止め諫めると、重昌、我等両人率先して進み、諸軍を奮起させるより途《みち》はないと嘆いた。進軍して諸軍を顧みるが誰も応じようとしない。従うはただ家臣だけである。重昌その日の出立《いでたち》は、紺縅鎧《こんおどしのよろい》に、金の采配を腰に帯び、白き絹に半月の指物さし、当麻《とうま》と名づける家重代の長槍を把《と》って居た。城中の兵、眺め見て大将と認め、斬って出る者が多い。小林久兵衛前駆奮撃して重昌を護《まも》るが、丸石落ち来って指物の旗を裂き竿《さお》を折った。屈せず猶《なお》進んだ重昌は、両手を塀に懸けて躍り込まんとした時、一丸その胸を貫いた。赤川源兵衛、小川又左衛門等左右を防いで居た家臣も同じく討死である。久兵衛重昌の死体を負って帰ろうとしたが、これも丸に当って斃れて果てた。伊藤半之丞、武田七郎左衛門等数名の士が決死の力戦の後、竹束《たけたば》に重昌を乗せて営に帰るを得た。重昌年五十一であった。
石谷貞清も浅黄《あさぎ》に金の五の字を画《えが》いた指物見せて、二の丸近くに押しよせた。しかし崖は数丈の高さであり堀も亦至って深い。城兵また多く来襲して、貞清自らも肩を槍で衝かれた。家臣湯浅覚太夫がその城兵を突伏せたので、危く重囲を脱し得たが、従士は次々に斃れるばかりである。その処を赤い瓢箪《ひょうたん》の上に小熊を附けた馬印を押し立て、兵五百に先頭して、馳《か》け抜ける若武者がある。重昌の子|主水佐重矩《もんどのすけしげのり》である。父の弔合戦、父が討死の処に死のうとの血相|凄《すさ》まじい有様を貞清見て、貝を吹いて退軍を命じ、犬死を誡《いまし》めて、切歯するのを無理に伴い帰った。全線に亙り戦いも午刻には終ったが、寄手は四千余の死傷を出した上に大将を討たせた様な始末である。之に引かえ城中の死傷は僅に百に満たなかったのであった。
始め幕命を受けて直ちに板倉重昌江戸を出発した時、柳生但馬守宗矩、折柄有馬玄頭邸で能楽を見物して居たが、この由を耳にするや、席を外《はず》して出で、馬に乗って重昌の後を追った。品川を駆け抜け川崎まで走りかけたが、ついに追い着く事が出来なかった。日も暮れて仕舞ったので、止むなく引返した宗矩は、登営して将軍に謁し、至急上使を変えんことを乞うた。台命《たいめい》を論議する言であるというので、家光の不興は甚しい。一言も下さずに奥へ立った後を、夜半に及ぶまで宗矩は端然と黙坐したまま退かない。我を折った家光は、ついに宗矩の言を聴いて見るとこうである。
「凡《およ》そ宗門の徒は深く教を信じ、身命を軽じても改《か》えない事武士の節義に於けると異ならない位である。織田信長の兵威をもってして、如何に本願寺の宗徒、或は伊勢長島、三河の一向一揆に手を焼いたかを見てもわかる次第だ。内膳正重昌、若い頃、大阪陣に大任を果したから、百姓一揆何程の事あろうと思召されようが、それは大違いである。且亦、重昌人物たりと雖《いえど》も三河深沢に僅か一万五千石の小名に過ぎない。恐らくは、細川の五十四万石、有馬の二十一万石、立花の十一万石等々の九州の雄藩は、容易に重昌の下命に従わないであろう。その為に軍陣はかばかしからず、更に新に権威ある者を遣すことにでもなった暁、重昌何の面目あって帰ろうや。あたら惜しき武士一人殺したり」情理整然とした諫言《かんげん》に、流石《さすが》の家光も後悔したけれども及ばなかった。悲しい事には、宗矩の言一々的中したのであった。重昌出陣に際して書残したものに、次の如く誌《しる》されてあった。
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去年の今日《こんにち》は江城に烏帽子《えぼし》の緒をしめ、今年《こんねん》の今日は島原に甲の緒をしむる。誠に移り変れる世のならひ早々打立候。
あら玉の年の始に散る花の
名のみ残らばさきがけと知れ
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重昌の志や悲壮である。名所司代板倉重宗の弟で、兄に劣らぬ器量があり、兄は重厚、弟は俊敏であったが、つまらない貧乏くじを引き当てたのである。
松平信綱謀戦之事
松平伊豆守信綱(此時四十二)が、改めて征討の正使として、嫡男甲斐守輝綱(此時十八)以下従士千三百を率いて西下したのは、寛永十四年|極月《ごくげつ》二十八日であった。副使は美濃大垣の城主戸田左門|氏鉄《うじてつ》(此時年六十一)。明けて十五年の正月四日、有馬表に着陣したのであるが、直ちに軍令を発し陣法を厳重にした。老中の指揮であるから従軍の諸大名も、今度は板倉重昌の場合の様に、馬鹿にするわけにはゆかない。
十日、信綱は海上から鉄砲で城を撃たせたが、船が少ない上に城は高く思う様にならない。そこで大船を求めしめた処が、丁度平戸沖に阿蘭陀《オランダ》船が碇泊しているのを知った。直ちに廻送せしめ、城へ石火矢《いしびや》を放たせた。阿蘭陀は当時新教でカソリック教とは新旧の違いこそあれ同じ宗教の為に闘って居る城へ、大砲を撃ち込むのは心苦しかったであろうが、何しろ当時の日本政府の命令だから止むを得ない。「智慧伊豆ともあろうものが、外国船の力を借りて城を攻めるとは、国の恥を知らないものか」手厳しい批評を城中で為して居る者が居る。が、宗徒はスペインなどからの援兵をひそかに期待していたかも知れぬから、外船からの攻撃は兵気を阻喪させたに違いない。
信綱は持久の策を執る決心をして居たから、兵糧米を充分に取寄せて諸軍に分った。二月初旬には、九州の諸大名も新手をもって来り会したから、信綱は令して諸軍の陣所を定めた。即ち北岡浜上り西南へ二百二十六間を熊本藩、次の十九間を柳川藩、次九間島原藩、次に十九間久留米藩、次百九十三間佐賀藩、次四十間唐津藩、次三百間は松平忠之兄弟、長蛇の陣はひしひしと原城をとり囲んだのである。信綱、氏鉄並に、板倉重矩等は中軍を形造り軍《いくさ》目付馬場利重を熊本勢へ、同牧野|成純《なりずみ》を柳川、久留米、島倉の営へ、榊原|職允《よりみつ》を佐賀の陣へ、林勝正を福岡唐津の軍へ、夫々遣わして、本営との連絡を厳重にした。更に信綱は各陣に指図して、高い井楼を築かしめた。井楼の上から城を俯して矢丸を射込もう策戦である。
信綱は更に城中の大将四郎の甥小平をして、小左衛門の手紙を持って城内に入らしめた。その手紙の趣と云うのは、
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