島原の乱
菊池寛
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(例)千束《せんぞく》島
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(例)天草|上島《かみじま》
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切支丹宗徒蜂起之事
肥後の国宇土の半島は、その南方天草の諸島と共に、内海八代湾を形造って居る。この宇土半島の西端と天草|上島《かみじま》の北端との間に、大矢野島、千束《せんぞく》島などの島が有って、不知火《しらぬい》有明の海を隔てて、西島原半島に相対して居るのである。
天正十五年、豊臣秀吉が薩摩の島津義久を征した時、九州全土に勢威盛んであった島津も、東西の両道を南下する豊臣勢には敵すべくもなく、忽《たちま》ち崩潰《ほうかい》した程であるから、沿道の小名|郷士《ごうし》の輩は風《ふう》を望んで秀吉の軍門に投じたのであった。
秀吉は此一円を、始め小西行長に属せしめたが、郷士土民はよく豊臣の制令に服従した。
徳川の天下となった後も、これらの郷士の子孫達は、豊臣の恩顧を想って敢て徳川幕府に仕うる事なく、山間漁村に隠れて出でようとはしなかったのである。
行長の遺臣益田甚兵衛|好次《よしつぐ》はそれら隠棲の浪士の一人である。始め肥後宇土郡|江辺《えべ》村に晴耕雨読の生活を送ること三十余年であったが、寛永十四年即ち天草島原の切利支丹一揆の乱が起った年の夏、大矢野島に渡り越野浦に移り住んで居た。元来行長は切利支丹宗の帰依者であったから、その家臣も多くこの教《おしえ》を奉じて居たのであって、益田好次も早くより之を信じて居た。天正十八年末、徳川幕府は全国に亙って切利支丹、法度《はっと》たるべき禁令を布《し》いた。これより宗門の徒の迫害を受けること甚だしく、幾多の殉教哀史をとどめて居ること世人の知るが如くである。
九州の地は早くから西洋人との交渉があったから、キリスト教も先ず、この地に伝わった。伝来の年が西暦一五四九年、島原の乱が同じく一六三七年であるから此間九十年近い歳月がある。この長い年月に亙っての、宣教師を始めとした熱烈な伝道は、国禁を忍んで秘かに帰依する幾多の信徒をつくった。当時海外折衝の要地であった長崎港を間近に控えた島原天草の地には勿論、苫屋《とまや》苫屋の朝夕に、密《ひそ》かな祈りがなされ、ひそかに十字が切られた。
大矢野島の益田好次に男子があった。名は四郎、五歳にして書を善くし、天性の英資は人々を驚嘆させた。幼にして熊本の一藩士の小姓となったが、十二三の頃辞して長崎に出て明人に雇われた。ある時一明人、四郎の風貌を観《み》て此子は市井に埋まる者でない。必ず天下の大事を為すであろう、と語ったと云う。父好次の下に帰ったのが寛永十四年、年|漸《ようや》く十六であったが、英敏の資に加うるに容資典雅にして挙動処女の如くであった。当時は、美少年尊重の世であったから、忽ち衆人讃仰の的《まと》となった。この弱冠の一美少年こそは、切利支丹一揆の総帥《そうすい》となった天草四郎時貞である。
当時島原一円の領主であった松倉|重次《しげつぐ》は惰弱の暗君で、徒《いたず》らに重税を縦《ほしいまま》にした。宗教上の圧迫も残虐で宗徒を温泉《うんぜん》(雲仙嶽)の火口へ投げ込んだりした。領主の暴政に、人心離反して次第に動揺し、流言|蜚語《ひご》また盛んに飛んだ。――病身がちであった将軍家光は既に薨《こう》じているが、未だ喪を発しないのだとか、この冬には両肥の国に兵革疫病が起って、ただ天主を信ずる者|丈《だけ》が身を全うし得るであろうとか、紛々たる流言である。四郎時貞が父と共に住居して居る大矢野島に並んだ千束島に、大矢野松右衛門、千束善右衛門、大江源右衛門、森宗意、山善左衛門と云う五人の宗門長老の者達が居た。これ等はこの島に隠れる事二十六年、熱心な伝道者であったが、嘗《か》つては益田好次同様豊臣の恩顧を受けた者である。
この年の夏彼等は人心の動揺に乗じて、「慶長の頃天草|上津浦《かみつうら》の一|伴天連《ばてれん》が、国禁によって国外へ追放された時の遺言に、今より後二十六年、天帝天をして東西の雲を焦さしめ、地をして不時の花を咲かしめるであろう。国郡騒動して人民困窮するけれども、天帝は二八の天章をこの地に下し、宗門の威を以って救うであろうとあるが、今年は正にその時に当る」と流言を放った。丁度この夏は干魃《かんばつ》で烈日雲を照し、島原では深江村を始め時ならぬ桜が開いたりしたから、人民は容易にこれらの流言を信ずるに至った。そこで松右衛門は好次と謀《はか》って、四郎をもって天帝|降《くだ》す処の天章と為し、大矢野島宮津に道場を開き法を説いた。来り会する老若男女は、威風|傍《かたわら》を払い、諄々《じゅんじゅん》として説法する美少年の風姿に、まずその眼を瞠《みは》ったに相違ない。その上彼等が尊敬し来った長老達が、四郎を礼拝する有様を見ては、驚異の念は次第に絶大の尊崇に変った。更に四郎が不思議の神通力を現すと云う噂は、門徒の信心を強め、新たに宗門に投ずる者を次第に増さしめた。四郎天を仰いで念ずると鳩が飛んで来て四郎の掌上に卵を産み、卵の中から天主の画像と聖書を出したとか、一人の狂女が来ったのに四郎|肯《うなず》くと忽ちに正気に還ったとか、またある時には、道場に来て四郎を罵《ののし》る者があったが、其場に唖《おし》となり躄《いざり》となった、などと云う。こうして宗教的熱情は高まり物情次第に騒然となって来た。
「領主板倉氏の宗徒への圧迫と課役の苛酷さとは、平時も堪えがたし。今年の凶作をもって、如何にして之に堪えてゆかれよう。今は非常手段に訴えるより途はなかろう」この様な論議が各村庄屋の寄合の席で持ち出される。大矢野島と島原との間に湯島と云う小島があるが、宗徒等は此処に秘密のアジトを置き、天草島原の両地方の人々が来り会して、策謀を凝《こら》した。後世談合島と称される所以《ゆえん》である。
島原の南有馬村庄屋治右衛門の弟に角蔵なる者があり、北有馬村の百姓三吉と共に、熱烈な信者であった。彼等の父は嘗つて藩の宗門改めに会って斬られた者達であるが、角蔵、三吉は各々の父の髑髏《どくろ》と天主像を秘かに拝して居たのを、此頃に至って公然と衆人に示して、勧説《かんぜい》するに至った。立ち所に帰する者七百人に及んだが、領内の不穏を察して居た有馬藩では、之が逮捕に、松田兵右衛門以下二十五人をして、船に乗じて赴かしめた。両名の妻子共々に捕えた時に、三吉は角蔵に向って「自分が身を以って教に殉ずるのは、固《もと》から願う処だ。しかし五歳の男児と三歳の女児の未だ教の何たるかを知らない者まで連座するのを見ると涙がこぼれる」と云うと、角蔵は、「何と云う事を云われる。我等両人世々教に殉ずる事になったわけで、生前の栄《はえ》、死後の寵何の之に加えるものがあろう」と答え笑って縛に就いた。たまたま三吉の家で礼拝して居た男女が七十余人あったが、角蔵、三吉両家の者を始め、主謀者と認《みな》された者等|総《すべ》て十六人が、藩船に乗せられて折柄暮れようとする海へ去るのを見送って、「自分等も早晩刑を受ける事であろう。今はただ相共に天国に見《まみ》えん事を待つのみである」と呼ばわりながら、見送った。これは十月二十二日の事であるが、その翌二十三日、有江村の郷士佐志木作右衛門の邸《やしき》に信徒が集って居るのを耳にした代官林兵右衛門は単身乗り込んで、天主の画像を奪い破り、竈《かまど》に投じた。忍従の信徒達もこれを見ては起たざるを得なかったのであろう。座に在った四十五人は等しく耒耜《らいし》を採って、兵右衛門を打ち殺して仕舞った。ここに於て佐志木作右衛門は、千束島の山善左衛門等と図《はか》ったが、結局|坐《い》ながら藩兵に攻められるより兵を挙ぐるに如《し》かずとなった。
「天主の教を奉じての事故《ことゆえ》日本全土を敵とするも懼《おそ》るるに当らない。況《いわ》んや九州の辺土をや。事成らばよし、成らずば一族天に昇るまでの事だ」聞く者皆唯々として従ったので、挙兵の檄文《げきぶん》は忽ちに加津佐、串山、小浜、千々岩《ちぢわ》を始め、北は有江、堂崎、布津、深江、中木場の諸村に飛んだ。加津佐村の代官山内小右衛門、安井三郎右衛門両名は、信徒三十数名に襲われ、鳥銃の為に斃《たお》された。千々岩、小浜、串山三村の代官高橋武右衛門は、夜半放火されて驚いて出る処を討たれた。其他諸々在々の諸役人も同じく襲撃されたのである。
時に島原の領主松倉重次は、江戸出府中の事であるから、留守の島原城は大騒ぎである。老臣岡本新兵衛は、士卒をして船で沿岸を偵察せしめるが、ほとんど、津々浦々が一揆である。うかつに上陸した者は、悉《ことごと》く襲われる始末である。殊に一揆は代官所を襲って得た処の鳥銃槍刀の武器を多く手に収めて居る。其上に元来が島原の人民は鳥銃製造の妙を得て居て、操作の名手も、少なくない。三会《みえ》村の百姓金作は針を遠くに懸けて置いて、百発百中と云う程で、人呼んで懸針金作と称した位である。
銃の名手丈でなく大斧《おおおの》を揮う老農があるかと思えば、剣法覚えの浪士が居る。こうした油断のならない一揆の群が何処にひそんで居るかわからないのだから、軍陣に慣れて居る藩士達も徒らに奔命に疲れるばかりでなく、諸処に討死をする。一揆の方では三会村の藩の米倉を奪取しようとさえした。
隣国の熊本藩、佐賀藩では急を聞いて援軍各々数千を国境にまで出したが、国境以外は幕命がなければ兵を進めることは法度である。豊後府内に居る幕府の目付が救援を許さないので、次第に騒動が大きくなるのを眺めているだけだった。
島原城から繰出した討手の軍勢も散々に反撃を受けて、早々に退き籠城しなければならなかった。宗徒勢は城下の民家社寺を焼き払って陣を布いた。此頃になると宗徒勢も大軍をなす程であるから、誰か総大将を立てようとの論議が出て来た。さらば稀代の俊英天草四郎時貞こそ然るべしと云うので、大矢野宮津の道場に急使をたてた。四郎は直ちに諾して、「我を大将と仰ぐからには、如何なる下知にも随《したが》うべし。陣立を整う故に早々各地の人数を知らしむべし」と命令した。道場の周囲には既に七百の武装民が集って居た。間もなく四郎は警固の者四五十人と共に、島原の大江村に渡った。首謀者達は此処で相談した結果、先ず長崎附近へ人数一万二千余を二つに分けて遣わし、日見《ひみ》峠、茂木《もぎ》峠に布陣して長崎を見下し、使をやって若し宗門に降らざる時は、一度に押し降って襲撃放火し、その後、勢いに乗じて島原城を乗取るべしと定めた。要地長崎を窺う軍略は一時の暴徒の考え得る処ではない。将《まさ》に、出動しようとして居る処へ天草の上津浦から使が来た。曰く、「寺沢家の支城富岡では、宗徒鎮圧の為に三宅藤兵衛を大将として、上津浦の近く島子志柿辺まで軍勢を指し向けたから至急に加勢を乞う」と。
そこで、長崎進撃を差置いて、四郎千五百を率いて天草に渡り、上津浦の人数と合して三道より進んだ。島子の一戦に寺沢勢を敗走せしめ、本戸《もとど》まで追撃して、ついに大将藤兵衛を、乱軍の中に自刃せしめた。何しろ、島中の人民はほとんど総てが信徒なので、征討軍が放つ密偵は悉く偽りの報告を齎《もたら》すから、まるで裏をかかれ通しである。
十一月十九日、寄手の軍は富岡城を攻めた。総軍一万二千分って五軍となす。加津佐の三郎兵衛、口野津《くちのつ》の作兵衛、有馬の治右衝門、千々岩の作左衛門以下千五百人、有家《ありや》の監物、布津の大右衛門、深江の勘右衛門以下千二百人、大矢野の甚兵衛、大矢野の三左衛門以下二千五百人、本渡《もとわたり》の但馬、楠浦の弥兵衛以下二千人、上
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