盛んな篝火《かがりび》は、寂然《せきぜん》たる本丸を、闇の中に浮き出させて居た。
 二十八日卯の頃、総軍十二万五千余は、均《ひと》しく内城に迫った。城中の宗徒も今日が最後と覚悟したから、矢丸《やだま》を惜しまず、木石を落し、器具に火をつけて投げ、必死に防ぐ。攻囲軍たじろぐと見ると門を開いて突出したが、反撃に支え切れず再び城に逃げ込んだ。
 寄手はそこで石火矢を放ったから、城内は火煙に包まれて、老弱の叫声は惨憺たるものである。
 板倉重矩|緋縅《ひおどし》の鎧に十文字の槍をさげ、石谷十蔵と共に城内に乗り込んで、
「父重昌の讐《かたき》を報ぜん為に来た。四郎時貞出でて戦え」と大呼した。
 会々《たまたま》宗徒の部将有江|休意《よしとも》、黒髪赤顔眼光人を射る六尺の長身を躍《おどら》して至った。重矩の従士左右から之に槍を付けようとするのを、重矩斥けて立ち向った。重矩の槍が休意の額を刺し、血が流れて眼に入ったので、休意は刀を抜いて斬りかかって来た。重矩抜き合すや、休意の右肩を斬り下げてついに斃した。
 後に間もなく、信綱知って之を賞し、水野勝成は自ら佩《お》ぶる宇多国房の刀を取って与えたと云う。
 細川の先鋒長岡佐渡等の一隊は、四方に四郎時貞を求め探した。その士陣|佐左衛門《すけざえもん》は、火煙をくぐって石塁中に入って見ると、一少年の創を受けて臥床するのを発見した。一女子|傍《そば》に在って嘆き悲んで居る。佐左衛門躍り込んで少年の首を斬って出ようとすると、女が袖を放さない。三宅半右衛門が来て、その女をも斬った。
 忠利、少年の首は時貞のであろうと信綱の見参に入れた。時貞の母を呼んで見せると、正しく時貞の首であった。
 かくて籠城以来、本丸に翻って居た聖餐《せいさん》の聖旗も地に落ちて、さしもの乱も終りを告げたのであった。
 これより先、寄手の放った弾丸が、原城中の軍議の席に落ちて、四郎を傷けたことがある。城兵は、四郎を天帝の化身のように考え、矢石当らず剣戟《けんげき》も傷くる能《あた》わずと思っていたのに、四郎が傷いたので、彼等の幻影が破れ、意気|頓《とみ》に沮喪したと云われる。
 幕軍は、城中に在ったものは老幼悉く斬って、その首を梟《さら》した。
 天草の乱平ぎ、切利支丹の教えは、根絶されたと思われた。
 しかし、こぼれた種は、地中にひそんで来ん春を待っていた。
 明治初年信教の自由許され、カソリック教の宣教師が来朝し、長崎大浦の地に堂宇を建てて、朝夕の祈祷《きとう》をしていると、どこからともなく集って来た百姓が、宣教師の背後に来て、しずかに十字を切った。
 その数が日に殖《ふ》えて、日本に於けるカソリック教復活の先駆を成したのである。

     後記

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この物語を作るに際し参考としたものは次の如し。
  島原天草日記
  松平輝綱の陣中日記
  島原一揆松倉記
  天草士賊城中話
城中の山田佐右衛門の口述書で、一名『山田佐右衛門覚書』とも云う。
  立花宗茂島原戦之覚書
  肥前国有馬古老物語
  原城紀事
  徳川実記
  其他
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底本:「日本合戦譚」文春文庫、文藝春秋社
   1987(昭和62)年2月10日第1刷
※底本は、物を数える際に用いる「ヶ」(区点番号5−86)(「十数ヶ村」)を、大振りにつくっています。
入力:網迫、大野晋、Juki
校正:土屋隆
2009年11月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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