を率いて出府した。上使の命に従うこととなった熊本の細川光利、久留米侯世子有馬|忠郷《たださと》、柳川侯世子立花忠茂、佐賀侯弟鍋島元茂等も相次いで江戸を立ったのであった。
 さて天草から島原へ軍を返した四郎時貞は、島原富岡の両城を攻めて抜けない中に、既に幕軍が近づいたので、此上は何処か要害を定めて持久を謀るより外は無い、と断じた。口津村の甚右衛門は、嘗つて有馬氏の治政時代に在った古城の原を無二の割拠地として勧め、衆みな之に同じたから、いよいよ古城を修復して立籠る事になった。口津村の松倉藩の倉庫に有った米五千石、鳥銃二千、弓百は悉く原城に奪い去られた。上使が有江村に着陣した十二月八日には、原城は準備整って居たのである。
 城の総大将は勿論天草四郎時貞であるが、その下に軍奉行として、元有馬家中の蘆塚《あしづか》忠兵衛年五十六歳、松島半之丞年四十、松倉家中医師|有家久意《ありやひさとも》年六十二、相津玄察年三十二、布津の太右衛門年六十五、参謀本部を構成し、益田好次、赤星主膳、有江|休意《よしとも》、相津宗印以下十数名の浪士、評定衆となり、目付には森宗意、蜷川《にながわ》左京、其他、弓奉行、鉄砲
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