に出ると、階段の口が、パッと明るかった。新子は、まだ寝衣《ねまき》にも着更えていなかったので、そのまま女中部屋の方へ降りて行った。
すると、氷嚢《ひょうのう》を持った女中に、パッタリ出会った。
「どなたかお悪いの?」
「はア、お嬢さまが――」
「まあ、祥子さまが……どこがお悪いの?」
「お風邪を召したんでしょうが、お熱が三十九度もおありになるんですの。ご夕飯がすむと、急にお熱が出て、今お医者さまがいらしったんですの。」と、女中も不安そうだった。新子は、さっき、祥子が夕立にぬれていく度もくしゃみをしていたのを思い出した。
「そうお。私、お見舞いに伺いたいんですけれど、伺ったらいけないでしょうかしら。」と、夫人に対する気兼で、おそるおそる訊ねた。
「およろしいでしょう。お嬢さまは、よくお熱をお出しになるので、奥さまはいつもの熱だとおっしゃって、もうお居間へお引取りになったようですよ。」と、女中は新子の気を察したように云った。
女中の後から、随《つ》いて行ってみると、祥子は、小さい寝台の上にグッタリとなっていた。
なるほど、夫人の姿は見えず準之助氏だけが、病児の顔をじっと見詰めながら、枕元の椅子に腰をかけていた。
「お風邪でございますか……」と、静かに新子が訊ねたのに対し、父が答えない先に、祥子がうるんだ眼を開けて、
「先生、祥子胸がくるしいの。さすって頂だい!」と、すぐ甘えかかった。
「ええ。どこが。」
「ここんとこ……」と、さも悩ましげに、掛ぶとんをおしのけて、左の胸を指した。
新子は、そこへかるく手をやりながら、
「さっき、雨におぬれになったのがいけないのでしょうか。」と、準之助氏にいうと、準之助氏は新子の方をチラと、意味ありげに見て、
「原因は論じないことにしましょう。でないと、とんだ責任問題が起りますからね。」と、苦笑しながら、小声でいった。新子が、夫人を憚《はばか》る以上に良人はその妻を憚っているのだった。
三
準之助氏の言葉に、新子も肩をすくめながら、病児がともすれば熱のために、払いのけようとする蒲団を、そっと小さい胸の上にかけて、その下に手をさし入れて、
「こうして、さすって上げましょうね。」と、柔軟な小さい肉体をさすり始めた。
祥子は、ウトウトし始めた。新子は、火のかたまりのように、ほてっている身体に驚きながら、こんなときあまりさすってはかえっていけないのだろうと思って、そっと手を引こうとすると、祥子はパッと眼を開くのだった。
静かに、静かにさすりながら、祥子の寝つくのを待つより外仕方がなかった。
「熱が高いので、肺炎を警戒するように医者が云っていました。」準之助氏が、低くつぶやくように云った。
「まあ。おかわいそうに、やっぱり、雨におぬれになったのが、いけなかったのですね。」女中が居なくなったので、新子は準之助氏の注意に拘らず、同じことをくり返した。
「そうかもしれません。しかし、僕達がそんなことを云い出してはいけません。妻が聴こうものなら、僕と貴女とで、病気にしたようなことを云い出しますからねえ。」
「でも、わるかったわ。アメリカン・ベイカリで、もっと休んでいればよかったのですわね。」
「いや、この子は、よく熱を出すんです。妻なんか、冗談にこの子のことを、熱出し機械なんて云っているくらいです。だから、安心し切っていますよ。」新子は、子供のうつらうつらと寝入った気配に、そっと手を引いた。
「眠ったようですな。どうぞ、引き取ってお休み下さい。もう十一時過ぎですから。女中が、附き添っていますから。」
「ええ。でも、もう少しお傍にいたいと思います。ほんとうにはよくお休みになっていないようですもの。」
「そうですか。じゃ、しばらく傍にいてやって下さい。すぐ女中が、参るでしょうから。」そういうと、準之助氏は、立ち上って、階上の居間に引き取ってしまった。
間もなく、女中がはいって来た。
「ご病気でも、奥さまはお子さまと別々にお休みになりますの。」と、新子はつい訊いてしまった。
「奥さまは、万事外国風なんですの。あちらに四、五年いらしったものですから。だから、小さいお嬢さまなんか、ほんとうにお気の毒なんですの。」
自分をあんなに慕うのも、やっぱり母の愛に飢えているからだろう。そう思うと、新子はいじらしさが、胸の中に、しみ出して来て、あの高飛車な夫人に対する意地からでも、徹夜して、看病したくなった。
小さい寝息は、時々苦しげに、せわしくなった。そして、(あつい! あつい!)と叫びながら蒲団をおしのけたりした。
「ねえ。しずかに、お休みなさい! あしたまでには、きっとよくなりますわ。ねえ、ねえ。そうしたら、今日のつづきの漫画よんで上げましょうね。」
羽根蒲団の上をかるく叩いた。
女中と交替に、氷嚢をとり換えに行った。
何時間経っただろう。女中は、台所の方へ行ったまま帰って来なかった。新子も、椅子の背にもたれて、わずかにまどろんだとき、部屋にはいった人の気勢《けはい》がしたので、ハッと眼を開けるとそれはパジャマを着た準之助氏であった。
明け方近い病室に、なお止まっている新子を発見して、驚いて見つめている準之助氏の眼にいい知れぬ優しさが、漲《みなぎ》っているのを見ると、新子は名状しがたい恥かしさに、一時に頬をそめてしまった。
四
優しい準之助氏の眼は、たちまち親しく怒りつけるような眼つきに変って、新子を見ながら、抜足して病床に近づいて来て、
「あれから、ずーっとここにいらしったんですか。そんなことをしては駄目ですよ。それじゃ、貴女の身体がたまらない。第一、貴女の仕事でもないじゃありませんか。」と、好意に充ちた小言《こごと》だった。
白々と明るくなった静かな空気の中に、スヤスヤと祥子の寝息が通っていた。
「大丈夫……」何か云いつづけようとしたけれど、声がかすれているので、新子は微笑で、まぎらしてしまった。
「大丈夫なものですか。もう五時過ぎていますよ。早く行ってお休みなさい。」
「今から、眠るということも出来ませんし、小太郎さんの勉強がすんでから、ゆっくり休ませて頂きます。」と、新子は小声でいった。
準之助氏はじっと新子の顔を見つめていたが、
「貴女の顔も、なんだか赤いようですよ。熱があるんじゃありませんか……」さっき赤くなった頬が、まだあせないでいたのである。
「熱なんか……」と、いいながら、新子はつい自分の額に手をあてると、
「どれ!」と、準之助氏は、無遠慮に新子の手首を取り上げて、脈拍《みゃく》を探った。
新子は、間がわるく、あわてて手を引っ込めようとしたが、そんなことをしては、なおこの場が色っぽくなるような気がして、静かに相手のなすままに委せていた。
「少し早いじゃありませんか。ムリをしちゃいけませんな。女中を呼びますから、お引き取りになって下さい。」
新子は、すっかり睡気がなくなってしまっていたが、こうやって準之助氏と向い合っていることがきまりがわるくなったので、
「それでは、失礼します。」というと、部屋を出て行った。
新子の屋根裏に近い部屋は、電燈の灯ったままで、ひんやりと、明方の空気が肌寒かった。
新子は、蒲団を伸べる気にもなれず、灯《あかり》を消したままで机の前に坐った。
そして、準之助氏の指の下で、血の流れを伝えた自分の手首を珍しいような、恥かしいような気持で、しばらく見つめた後、自分でも脈を数えてみた。
脈が早かったのは熱のせいではなく、準之助氏の思いがけない出現と自分に対する態度のせいであると思った。
そして、準之助氏があれ以上、自分に親しみを見せるようであったら、考えなければならぬと思った。
そう思うと、たちまち美沢の若々しい面影が生々《なまなま》しく眼の中に浮んで来るのだった。
四日目の朝になって、祥子の熱がようやく、七度台に下った。
新子は、二晩はまるで、一睡もしなかった。祥子の病室に徹夜していると準之助氏が時々、容子を見に来た。そして、新子に引き取るように勧め、新子はこれをこばみ、その間に二人の感情や好意が、からみ合った。だが結局女中達よりも、新子の方が、夜通し付添っていた。その方が、祥子がよろこぶからだった。
夫人は、祥子が病んでいても、午前は良人とゴルフに行き、夜は知合いの外人の別荘にダンス・パーティがあるといって出かけた。新子が祥子の看病をしていることなど、およそ自分とは関係のないような顔をしていた。むろん、礼もいわなかった。
今朝も、夫人の親類に当る木賀子爵という青年が、東京から三、四日の予定で遊びに来ると、夫人はその青年と乗馬で、鬼押出しの方へ遠乗りに出かけてしまった。出がけに、ちょっと病室へ顔を出し、そこに新子がいるのを見ると、
「この子の熱は、四日目には、きっと平熱になるんですよ。主人なんか、毎度大さわぎをやりますんですけれど――あまり子供を大事にし過ぎると、かえって結果がよくありませんからね。本なんかも、あまり読んでやったりなさらないように、病気のときなんかかえって神経を刺戟し過ぎますし、また本を他人によませて、聴くなんていい習慣じゃありませんからね。」
新子が、膝の上にのせていた「漫画常設館」という本を、ちらりと見ていった。自分が新子に本の頁《ページ》を切らせたのを忘れたように。
しかし、新子は夫人が出て行くと、すぐ祥子に本をよんでやった。
祥子は、かわいそうな話と恐い話が好きで、アラビアン・ナイトの悪魔を壺へ封じ込める話など、幾度もくり返して聴きたがった。
小太郎も、祥子の部屋に遊びに来た。さわやかな午前だった。
女中が、はいって来て、(旦那さまが、お呼びです)と、云った。
二階の書斎へはいって行くと、準之助氏はひどく嬉しそうで、向き合っている新子の方まで、つい頬をほころばしたくなった。
「今、僕部屋をのぞきに行ったの、知っていますか。」
「いいえ、存じません。」
「子供達が、貴女をまるで、母親のようにして、甘えているんで、僕は扉《ドア》を開けずに、上へ帰って来たんですよ。」新子は準之助氏の視線を避けるようにして、答えなかった。答えようもなかった。
「僕は貴女にお礼をしたいんです。」
「お礼なんて――私が、何を致しましたかしら、祥子さんのご病気を、私が看病するくらい当然じゃございませんかしら。」
「いや、当然なことをしない女だって、沢山いますからな。僕にお礼をさせて下さい、でないと、僕の感情が、どんなふうに爆発するか分りませんよ。」
「そんなこと、おっしゃっては困りますわ。」
「じゃ、お礼を受けとって下さるでしょう。」と云って準之助氏は、自分用らしい白い角封筒を新子の前にさし出した。
新子は、それを断るには、たいへんな努力が要ると思ったので、素直に受けとった。
内懐《うちぶところ》にしまって、子供達の部屋に降りて来て、祥子の相手をしていたが、昼食のとき自分の部屋へ帰ったとき、開けてみると、それは、思いがけない不当な大金であった。
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戯恋馬上行
一
ここらあたりは、スカンジナビアかどこか、北欧の景色に似ているという、薄白く霧のかかっている草野原で、土地の女の子が撫子《なでしこ》をつんでいる。
「このへんでお休みになりませんか。」
若さで、はち切れそうな青年紳士が、先へ打たせている同じ馬上の夫人に呼びかける。
「押出しまで行きましょうよ。休みなら千ヶ滝の坂の下へ、馬を預けて、ホテルでお茶をご一しょに、その方がいいわ。」
競走馬上りと見える流星栗毛のスマートな牝馬《ひんば》に、純白の乗馬服を着た夫人は、大公妃のように跨《またが》っている。しかし、声は新子に話す時などとは違って、小娘のようにはずんでいる。
つばの広い帽子の下で、双眸《そうぼう》がはれやかにまたたき、さわやかな風に頬をなぶらせ、夫人はまるで別人のようにはしゃいでいるのだ。
二、三町ばかり、軽い速歩《トロット》で進むと、眼下に新しい景色が展《ひら》
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