ける。それは小浅間の鬼押出しと呼ばれている、流れ出した熔岩のかたまった焼石の原である。
 その景色と、その上に点出された馬上の二人と、まるで外国の絵のようだ。
 熔岩の道は、だんだん爪先上りになり、やがてまた谷のような、くぼみの所まで出ると、夫人は手綱をしめて馬を控えた。
「下りてご覧になりますか。」黒鹿毛《くろかげ》に乗っている青年は、後から声をかけた。夫人はかむり[#「かむり」に傍点]を振った。
「貴君《あなた》こそ疲れたのじゃない? 弱虫ね。」
「ご冗談を! 僕は学習院にいたとき、これで伊豆半島一周の遠乗りをしましたよ。」
 青年の盛んな答えを、嬉しそうな笑顔で受けて、夫人は馬を立て直すと、やや早い馳走《キャンター》で走り出した。
 荒涼たる焼石の原から、柔かい緑の丘へ、二頭の馬はたてがみで高原の涼風を切る。
 夫人は昵懇《じっこん》らしい百姓家に、馬を預け飼料《かいば》をやるように頼むと、鞭をステッキのように持ったまま青年と並んでグリーン・ホテルへ行く坂道を歩き出した。
「逸郎さん、貴君、当分|宿《とま》って行くでしょう。」
「当分って、二、三日のつもりですよ。」
「お家へ電話で断ればいいじゃないの。貴君は、いつまでも子供ね。」
 足下に、山々にかこまれた広い平原が見え出した。
 健康な男性美に富んだ青年は、立ち止まって、大きい呼吸をして、
「いいなあ!」と歎じながら、
「なぜ、前川さんを無理にもお誘いしなかったんですか。」と訊いた。

        二

 夫人は、良人のことをいわれると気むずかしそうに、眉をひそめつつ、
「前川のことなんか、もう結構よ。私、二人の子供と、たった一人の男を相手に、もう十五年も暮して来たのよ。前川なんか、何の刺戟でもないわ。あの人は、英国流の温厚な紳士で、そして無精で、本ばかり読んでいて。」
「それでけっこうな旦那様じゃありませんか、貴女《あなた》の自由をちっとも束縛しない……」
「貴君は、なぜいやがらせばかりおっしゃるの。若い方は、そんなふうな物云いはしないものよ。」
 夫人は、艶《なま》めかしくいうと、肩もすれすれに、青年に近よって、
「主人と一しょになんか来れば、この美しい景色が、台なしになってしまうわ。」そっと青年の肩に手を置いた。
「これ、りんどう[#「りんどう」に傍点]じゃないでしょうか。」彼は、突如、路傍の紫の花に、手をさし出すことで、巧みに夫人の手から離れた。
 ホテルの喫茶は、二階の食堂の廊下に在った。そこから、このあたり一帯の異国情緒の風光が一望され、見晴しが美しいのである。
 二人は、窓際に向い合って席に着いた。
 近代的で、スポーツマン・タイプで、清秀で明るい感じのこの青年は、綾子夫人の母方の遠縁に当るという。夫人は、この青年を、彼女の「足下《あしもと》」にひざまずかせようという意図でもあるように夫人の片言微笑には、孔雀《くじゃく》が尾羽《おばね》を、一杯に広げたような勿体《もったい》ぶった風情があり、華やかな巧緻な媚《こび》に溢れていた。
 青年は、常に無邪気そうな、しかし時々気むずかしそうな、名投手の球勢変化《チェンジ・オブ・ペース》を思わせるような抑揚のある態度で夫人に対しているのであった。
「ほんとうに、長くいて、私の遊び相手になってよ。でないと、私身体をもてあましてしまうのよ。主人とばかり顔を見合わせているのじゃ、息がつまりそうよ。」
「だって、祥子さんが、ご病気だというじゃありませんか。」
「いつもの風邪よ。あの子は、土地が変ると、きっと熱を出すのよ。ちっとも、心配することないわ。」
「見馴れない若い女の方が、付添っていらっしゃいましたね。」
「今度来た家庭教師よ。」
「勝気そうな、美しい人じゃありませんか。」
「おや、そんなことまで、いつ見たの。」
「チラと見たばかりですけれど。」
「ああいう人、私すかないの。ちょっと、乙にすましている女。だから、私思いきり、いろいろな用をさせようと思っているの。私は、一般に同性は、嫌いなのね。同性を見ていると、何だかいらいらして来る性分なんだわ。」
 その美貌と才能とに、あまりに自信を持ちすぎる高慢な婦人の通弊だと思いながら、青年はだまって、夫人の顔を見つめていた。

        三

 青年はシガレット・ケースを開けると、夫人に勧めた。
「何?」
「キャメル……」
「ごめんなさい。私、これしか吸えないの。」と、いって夫人は、自分の赤革のケースから、スリー・キャッスルの細巻を出して、青年がライターをつけてくれるのを待った。
「私、三、四日のうちに、伊香保へ行ってみたいんだけれど、貴君も行ってみない。」
「さあ! 貴女と二人で……ですか。」
「逸郎さん。貴君、前川を恐《こわ》がっているようね。」
 露《あら》わに、艶めかしい夫人の言葉に、青年は善良そうに、顔を染めて、苦笑しながら、首を振った。
「なら、私が恐いの?」
 姉か何かのような上手《うわて》の位置から、青年が顔を染めるのを、楽しい観物《みもの》ででもあるかのように、見おろしながら、しかも同時に媚を呈しながら、夫人が云った。
 青年は、ほのかに首を振って、
「どちらも、恐いわけではありませんが……」
「ねえ。一しょに行ってみない。佐竹の伯母さんとこへ訊ねて行くといえばいいでしょう。私、ここもいいけれど、観《み》るものも聞くものもないから退屈するのよ。前川と話しすることなんか何にもないし……」
 夫人は、いつも高慢な態度を持しているが、しかしこういう若い男性に微笑を見せるということだけは、また別なことであるらしかった。
 夫人としては、自分の媚態《びたい》が、男性にどんな影響を及ぼしそのために男性の眼に、どんな熱情が浮び、どんな不安が浮び、どんな哀願が浮ぶかを見ることが、楽しい刺戟であるらしかった。
 しかし、この青年は、夫人のそういう態度には、免疫になっているらしく、一も二もなく、支配されているわけではなかった。
「そろそろお帰りになりませんか。」と、煙草を捨てて立ち上った。
「ほほ、もう帰るの? じゃ、私達は食前の運動に来たと云うだけだわ。」夫人は、さも可笑《おか》しそうに笑いながら、ボーイをよんで勘定をすませると、ツカツカと階段を走り下りた。
 ホテルを出たところで、
「貴君《あなた》は私の家に居るの窮屈?」
「なぜ? 決してそんなことありませんよ。」
「じゃ、長くいらっしゃい! そして、私の相手をして頂戴! 前川だけじゃつまんないわ。」
「僕だって、あまり面白い人間じゃないことをご存じじゃありませんか。東京じゃ、子供扱いで、まるで相手にもして下さらないじゃありませんか。」
「ほほほほほほ。じゃ軽井沢だけの男友達《アミイ》でいいじゃないこと、ほほほほほ。」
 夫人は、その美しい長身をくねらせながら笑いこけた。

        四

 青年の顔は、一層あか[#「あか」に傍点]らんだ。が、しばらくしてから、思い切った風情で、
「いくら、親類でもあまり親しくしていると、つまらない誤解を受けますし……それに、貴女を好きになっちゃ、なおたいへんだし……」
「ほほほはほ。」青年の言葉が、おわり切らない内に、夫人はまたさも可笑《おか》しそうに笑い出した。青年は、驚いたように、夫人と顔を見合わせた。
「貴君のように、大ゲサな物いいをする人はないわ。私達は、お友達同士じゃありませんか。いつまでも、貴君は私の好きなお友達よ。」いとしむような、艶《あで》やかな愛嬌に溢れている夫人の顔を、それ以上見るのが恥かしく、青年はまた視線をそらした。
「一しょに遠乗りをしても、用心する。パーティに行くのも危険だ。一しょに小旅行《トリップ》に行くなんて一大事だなんて云うお友達は、一体どんな顔をしている。どーらちょっとこちらを向いてごらんなさい!」と、云いながら、夫人の手が無造作に、青年の顎に延びた。
 青年は、真赤になりながら、いやでも夫人と顔を見合わせなければならなかった。彼は、咽喉と胸がいくらかつまるような気持がして夫人の手をそっと顎から押しのけた。
 ちょうど、馬を預けてある百姓家の前へ来た。
「ほほ……。もう何にもお願いしないわ。でも、馬にだけは乗せてくれるでしょう?」青年は、夫人を介添して、夫人のほっそりした右の片足を支えて、馬背《ばはい》にまたがらせた。
 再び馬上の人となった夫人は、薔薇《ばら》の花のように、ほこらしげに笑った。
 並んで、馬を打たせ始めると、夫人は怒ってでもいるように、軽井沢近くなるまで、物を云わなくなってしまった。
 離山《はなれやま》のふもとまで来たとき、青年は、この気まぐれの大公妃のご機嫌を取るつもりで、実に用心ぶかくつつましく、不安げに訊いた。
「何か、お気にさわりましたか。」
「私が……何を。」夫人は、いたずらいたずらした大きな双眸を、ジッと青年の方へ向けた。
 夫人を敬遠しながらも、やはり青年は夫人の影響の下にあると見えて、やはり青年の気持ちには落着きがなく、夫人の媚態の甘やかさに酔うていたのだ。
「だまっておしまいになったから。」
「そうよ、貴君が、警戒ばかりするからよ。」そういいながら、夫人はかるく拍車を当てた。馬は、急に早い速歩《トロット》に移った。
「危いですよ、そんな……」青年は、もう別荘地の道に出るので、夫人の無謀を制しようとすると、夫人はわざと一鞭くれた。
 競走馬上りだけにかん[#「かん」に傍点]のいい牝馬《ひんば》は、すぐ駈足になって戞々《かつかつ》たる馬蹄の音を立てながら前川邸近い森の中に走り入ろうとしたように見えたが、何人《なんぴと》かの悲鳴が聞えると同時に、たちまち馬が、竿立《さおだち》になり、タッタタッタと、二、三歩後退した。

        五

 ちょうど、別荘から出て来た新子と、折悪しく夫人の馬とが、出会頭になったのだ。
 夫人も必死に馬を止めたらしく、ちょっと口が利けないほど、驚いているし、新子はあわてて馬を避けた拍子に、背後《うしろ》へ倒れかかったらしく、そこにある白樺の太い幹へ、十字架にかかったような姿勢でよりかかって、痛そうに顔をしかめ、鷺《さぎ》のように片足で立っているのだった。
 青年は驚いて馬から降りると、手早く馬を傍《かたわら》の木につなぎ、
「蹴られたんですか。」と、不安そうに、新子に近づいた。
「大丈夫よ。ただ、不意だったから、びっくりなさったのよ。ねえ、怪我なんかないでしょう。」さすがの夫人も、あなや[#「あなや」に傍点]という思いをして、胸をとどろかせているのに、なお平生《ふだん》の虚勢を捨てないのだった。
「大丈夫でしょう。ねえ。」と、もう一度云うと、すっかり不機嫌そうに、謝罪の言葉など一言もなく、二人の脇を馬に乗ったまま、通りすぎてしまった。
「足を、どうかなさったのですか。」そう云いながら、青年は取り敢《あえ》ず、新子の手を曳《ひ》いて、彼女が落ちかかっていたくぼ[#「くぼ」に傍点]地から、彼女を小径の方へ連れ出した。
「何でもございませんの、私、ぼんやりしておりましたので、随分驚いてしまって……痛っ……」シャンとしようとすると、足首が痛かったので、彼女は思わず声を立てて、青年の肩にすがった。
「足をくじかれたのでしょうか。」
「いいえ。大丈夫です。どうぞ、いらっして下さいませ。」新子は、すぐにも自分の痛い足を見たいのに、青年がいるので、裾を揚げるわけにも行かず、夫人のお客様などの世話になる気には、とうていなれず、ただ早く立ち去ってくれればと思っていた。
「手から血が出ていますよ。」と、云われて、新子は初めて、手首の痛みにも気がついた。白樺の幹ですりむいた傷らしかった。
 彼女の白い手の甲に、うっすらと血が滲んでいた。
「無茶ですよ。あの人は、……乱暴に飛ばせるんだもの……」夫人のことらしかった。新子は黙って、そっと手首の傷を叩いた。
「貴女、僕の肩へすがって、いらっしゃいませんか。もし、足をくじいているとすればなるべく動かさない方がいいですから。」新子は、ハ
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