拍子に、眼がかち合った。
 すぐ、その眼をそらしながら、準之助氏は、
「貴女は、子供好きですね。」と、いった。
「ええ。」
「私の妻なんか、自分の子供でも、あまり可愛くないと見えますね。」
 新子は、また返事に窮した。
「貴女がながくいて下さるといいですな。」
「なぜで、ございます。」
「貴女が、子供と一しょにいて下さったこの三日、僕は何となく安らかな思いでいましたよ。」
 藤棚の下の、一番よい場所の卓子《テーブル》を占領して、子供達は二人を待っていた。

        三

 準之助氏の心に、とろりと艶《なま》めかしいわだかまりが出来ていることを、新子はハッキリ感じていたが、しかし新子は、それによって、心を動かされはしなかった。といって、それを煩わしいとも重くるしいとも思わなかった。ただ好意のある微笑をもって、のぞもうと思っていた。
 初対面のときから、準之助氏に好意と敬愛とを持ってはいたが、しかしそれが、どうころんでも愛慕になるとは思えなかった。
 それに、彼女は美沢を愛していたから。
 でも、こうして四人づれで、子供達には仮の母のように、準之助氏には、仮の妻のように、行動していることも楽しいことには違いなかった。
 ベイカリの帰りには、森に入ってからではあったけれども、軽井沢特有の雷雨に会ってしまった。小太郎と祥子とは、それをまた、面白がって走り廻ったので、ビショ濡《ぬ》れになった。
 別荘の前の道まで、走りぬけると、女中が傘を二本持って迎いに来ていた。
 女中は、準之助氏に傘を渡しながら、
「あの奥さまが、先刻《さきほど》お着きになりました。」といった。
 準之助氏は、不意の知らせにいささか驚いたらしかったが、すぐ常態に返って、
「駅へ誰も迎いに出なかったのかい。」と、尋ねた。
「はあ、お電話も下さらないものですから……」と、女中は弁解した。
 新子は、今しがたの雷が、まだ空に鳴りつづけているような不安を感じた。
「ママのお土産《みやげ》なんだろう。」
 さすがに、兄妹は母来ると知ると、新子のさし出した傘にはいろうともせず、小降りながら、まだふりつづいている白雨《はくう》中を、門の中にかけこんでしまった。
 主人と二人並んで門をはいるのが、新子は何となく気が引けた。
 主人は玄関から、新子は内玄関の方から、家へはいった。
 濡れた衣類を着かえて、夫人のところへご挨拶に出ようと思って、自分の部屋の扉を開けてみて、新子はハッとした。
 それは、間違って別室に入ったのではないかと思ったほど、容子が変っていたからである。自分が使っていた机の上は、キチンと片づけられ、そこに置いてあった数冊の本は影もなく、女郎花《おみなえし》と桔梗《ききょう》とを生けてあった花瓶も見当らず、ベッドの上の麻のかけぶとんもなく、棚の上のスーツ・ケースも無くなっていた。
 あまりの激変に新子は、あっけに取られて、立ちすくんでいると、新子の帰宅をそれと気づいたらしい女中が、廊下をバタバタと後を追って来た。
「南條先生! たいへん、失礼致しました。でも、奥さまがいらっしゃいまして、先生のお部屋が違っていると、おっしゃるもんですから、お留守でしたけれども、早速お変えしたんですの、奥さまはおっしゃったことを、すぐ致さないとご機嫌が、悪いものですから。」人のよさそうな女中は、オドオドしながらいった。

        四

 新子は、思わず身体が、ムーッと熱くなるような憤《いきどお》りを感じた。
 奥さまの考えで、部屋が違っていたにもせよ、自分が帰って来るのを待って引越させてくれてもいいではないか、たとい雇人であろうとも、他人の留守に勝手に、荷物を運び出すなんて……女中のせいではないと思いながらも、かの女はつい険のある眼になって、
「そして、新しいお部屋は……」と訊いた。
「どうぞ、こちらへいらしって……」と、女中は先に立った。
 肩のあたりが、雨にぬれていて気持がわるく、一層ジリジリした。
 二階へ上るといっても、女中部屋の脇からの裏階段で、母屋とは棟ちがいの中二階の部屋に案内した。
 畳数は六畳で、同じような作りの部屋が二つ並んでいた。
 とっつきの部屋は、物置になっているらしく、静子に当てられた次の部屋も、小さな窓が一つあるだけで、何となく暗く、床まき香水を思わせるよい草の匂いなどはおろか、うかうかすればカビの香りでもしそうである。
 隅にある安手な机と書棚、新子の荷物が部屋の真中に薄情そうに雑然と置かれてあるのを見ると、ものかなしくなって、そのまま暇《いとま》を告げて、東京へ帰りたい気持がした。
「では、ご免遊ばせ。」と、女中は新子の顔を見ないようにして、コソコソと階下《した》へ行ってしまった。
 新子は、目見得に来た女中のように、スーツ・ケースから着物を出して、ともかくも着かえてから、部屋を片づけた。
(これが、生活なのだ。これが世間なのだ。これが奉公なのだ。部屋は、これでちょうどいいのだ。さっきまでのは良すぎたのだわ)と、新子は妙に、イライラした自分の神経をなだめるように、胸の中でいった。
 奥さまのところへ、挨拶に行くのが何となくおっくう[#「おっくう」に傍点]で、不快で、しばらくの間ぼんやりしていると、さっきの女中が来て、
「奥さまが、お部屋でお目にかかるといっていらっしゃいます。」と、いった。
 奥さまの部屋は、二階に在り、子供達に案内してもらって一度見たことがある。新子の部屋から廊下を真っ直ぐに、三段ほど上って母屋の二階へ出ると、主人の部屋と並んでいた。
 バルコニイのある貴族趣味の、いかにも別荘らしい瀟洒《しょうしゃ》たる部屋で、ぜいたく[#「ぜいたく」に傍点]を極めていた。
 白い色を多く使った明るい家具が置かれ、バルコニイ近い豊かなソファに、軽い紗のアフタヌーンを被《き》た夫人が、あだかも大公妃のような態度で、彼女を待っていた。

        五

 新子は、準之助氏と一しょに散歩に出たことについても、きっと叱言《こごと》があるに違いないと思うと、女学校時代にやかましいオールド・ミスの先生に呼び出された時のように、丁寧に会釈すると、何かいわれるまでは、立っていた。
「どうぞ、おかけ下さい。」と、夫人は身近い椅子を指ざした。新子は、卑屈にならない程度で、愛想ふかく、ほほ笑みながら、腰をおろして落着くと、
「子供と一しょに来ないで、いろいろご迷惑でしたでしょう。主人から伺いましたけれども、子供の勉強を見て下さる時間割は、たいへんけっこうだと思います。でも、貴女が子供達を遊ばして下さるのは、ご親切ですけれども、あまり馴々《なれなれ》しくさせないで頂きたいと思いますの。家庭教師は、女中ではありませんから。先生としての恐《こわ》さを無くしてしまうと、いろいろ弊害が多いと思いますから……そのおつもりで……」と、夫人は何か小さい卓上演説《テーブルスピーチ》でもするように、ハッキリというとだまってしまった。主人と散歩してはいけないなどいうような注意は、夫人自身の尊厳を害するとみえて、おくびに出さず、顧みて他をいったというような注意だった。
 しかし、それも何かしら無理な注意で、
「はア。」と、新子は、憤りと口惜《くや》しさに顔を赤くしながらも、しとやかに夫人の言葉を受けた。
「それだけ、申し上げたくてお呼びしたのです。どうぞ、お引き取り下さい!」と、夫人はあくまで高飛車に、部屋を取りかえたことなどは、夫人としては当然すぎることらしく、それに対する挨拶などは一切なかった。
 新子も、こんな気持で、夫人とこれ以上対坐することは、堪えられなかったので、
「失礼致しました。」と、せわしなくいって、立ち去ろうとすると、
「ちょっと、恐れ入りますが……」と、ひどくやさしく夫人は、新子を呼び止めた。
 新子が振り向くと、夫人はステンド・グラスの張ってある白い卓子《テーブル》の上の、青磁の花瓶を指しながら、
「何でもようございますわ。これに、花をさして持って来ておいて下さいませんか、庭に何かあるでしょうから。」
「はア。」新子は、花瓶をとり上げて、早々に部屋を出た。
 新子は、文句を云われた後に、たちまち用事をいいつけられたので、驚きながらも、庭へ出て、ポンポン・ダリヤばかりを切って、夫人の部屋へ持って行くと、夫人は、
「ありがとう。それから、これを切っておいて下さいません。」と、ペイパ・ナイフと「英国近代短篇集」という書籍をさし出した。
[#改ページ]

  不当な謝礼




        一

 新子は、しばらく夫人の傍で切られていない本の頁《ページ》を切っていた。
 夫人は、新子が傍にいることなどは、すっかり忘れたように、スリー・キャッスルの細巻を吸いながら、綺麗なファッション・ブックを漫然とながめているのだった。
 新子は、切り終った本を卓の上に、そっと置いて、
「これでよろしゅうございましょうか。」と、丁寧にいうと、
「はい。」と、夫人は、礼もいわず、ふり向きもしなかった。叱言《こごと》をいった上に、人を使ってと思うと、新子は少し苛々《いらいら》して部屋を出た。
 夫人は高飛車にかまえていながら、人使いは巧みな女性らしい。この分だったら、明日から、どんな風に使い廻されるかわからない、と新子は一方の肩をすくめて考えた。
 六時になった。軌道の上を走っているように正確な、この家の生活は、六時になれば食堂に集まって夕食なのである。
 今宵から、夫人の前で、かしこまって、子供達とも笑い興ずることも出来ずに、ご飯をたべるのかと、新子が考えている矢先に、先刻の女中が上って来て、またひどく気の毒らしく、
「奥さまが、お食事は家族だけでなさりたいとのことで、今晩から貴女《あなた》は別に差しあげることになりました。」といいに来た。
(その方が、いい。その方が気楽だわ)と、思いながらも、新子はひどく淋しかった。

 家族達ばかりの食堂で、新子の姿が見えないのに、料理がどんどん運ばれるので、祥子が一番に心配して、
「南條先生は? 南條先生はどうしたの?」と、女中に二、三度訊いていたが夫人は相手にしなかった。準之助氏が、不審を起して、夫人に、
「どうしたの。南條さんは。」と、訊いた。
「今日から、別室で召し上って頂くことにしましたの。」
「なぜさ、こちらでは、一しょでもいいじゃないか、その方が賑やかで……」
「でも、家族と雇人とは、ハッキリ区別した方が、よろしいようですわ。」
「うん。そうか。」と、準之助氏は、素直にうなずきながら、
「しかし、今日は貴女が初めて来た晩だし、懇親の意味で、ここで一しょに食事をして頂いた方がよかったねえ。」と云うと、夫人はやさしく、しかし同時に嘲《あざけ》るような表情で、夫君の言葉を聴いていたが、ニコニコしながら、良人《おっと》には答えず、子供の方に向いて、
「ねえ、貴君《あなた》達だって、パパとママと四人ぎりの方がいいわねえ。ほかの人がいたら、窮屈でしょう。ねえ。」といった。小太郎と祥子とは、びっくりしたように、母の顔を見上げたが、ママの顔が、その優しい言葉に引きかえて、厳しいので、
「うん。」と、いってしまった。

        二

 あまりにも、部屋の有様が異なってしまって、新子は落着けなかったし、物悲しさがなかなか薄らがず、美沢に手紙を書いて、この間の手紙を早速取り消したいと思いながらも、それも何となくものうかった。
 十時過ぎ、風が出て、庭の樹立に、ゴウとすさまじい音を立てた。
 前庭に、突如自動車の警笛《サイレン》の音が聞える。不意のお客だろうか、階下が何かざわざわしている。そう思っていると三十分ばかりしてその自動車は帰り去った。
 間もなく、階下はしずかになったが、その静けさの中に、ほのかに氷を砕くらしい音が伝わって来る。新子は「おや!」と思いながら、耳をすました。
 ここの部屋からは、窓を明けると、闇に面するばかりで、何もうかがえなかったけれど、常の夜とは異なって、母屋の方が薄ら明るかった。
 新子が廊下
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