ゴルフへ行っていらっしゃいます。」と云う返事だった。
廊下が、一段トンと低くなって、そのとっつきの洋室が、新子のための部屋だという。
庭に面して、二方に窓があり、淡いみどりの壁紙が貼ってあり、取りつけのベッドがあり、気持のよい部屋で、軽井沢特有の少し湿気を帯びた、すがすがしい山の風が、部屋の中を吹き払っている。
カーテンが風に、帆のようにふくらみ、たちまちガラス窓に、ぴったりと吸われる。
「もったいないほど、よいお部屋でございますこと。」と、新子が云うと、
「洗面所《トイレット》やバスは、後でご案内いたします。」と、外人別荘にいたことのあるらしい女中は、英語を使った。
それまで、新子につきまとっていた子供に、
「さあ、先生は汽車でお疲れになっていますから、少しお休みになるそうですから、お坊っちゃん達は、お二人でお遊びなさいませ。」と子供にいってから、新子に「四時にお茶でございますから、そのとき旦那さまにご挨拶なさいませ。」と、いって、子供達を向うへ連れて行ってくれた。
新子は何から何まで、外国式なこの家の主人に気に入るように、キチンとしたいと思って、髪をなおし、足袋《たび》をはきかえ、帯のゆるみをなおしてから、荷物を一通り片づけて、さて気持を落ちつけるために、壁際にあるソファに、腰をおろした。
路子が来ていないと知ったとき、自分を夫人からかばってくれる人が居ないのを知って、悲しく思ったが、その夫人が五、六日は来ないことを知って、うれしくなった。
あの高飛車な夫人に対する気兼さえなければ、この家は相当楽しいところに違いない。準之助氏は、英国紳士のように、優雅で親切に思えたから……霧が、だんだん晴れて窓から近く離山《はなれやま》が見える。こんなに明るい静かな生活であったら、自分も勉強が出来る。まるで、都会の厩舎《きゅうしゃ》から高原の牧場へ放された馬のようではないかと思っていると、お茶の迎いらしく幼い足音が、響いて来た。
四
新子は、次の朝|郭公《かっこう》とミヒヒという山羊の声で眼がさめた。腕時計を見ると、六時少し前であったけれど、彼女はそのまま起きて、やや肌寒いのでセルのサッパリした常着《ふだんぎ》に着かえて庭へ出た。
庭の面《おもて》には輝かしい朝の陽が溢《あふ》れているのだったけれど、家をとりまく緑の繁みに、まだ朝ぎりが、ほのぼのと煙っていた。
白樺の小径には、短い夏の夜を鳴き足りない虫の、かぼそい声がきかれた。
ふと小径の曲り角で、新子は足音と影とを見て立ち止まった。
それは、準之助氏であった。
早くも今朝カミソリの刃を当てたらしいすがすがしい顎、麻の単衣《ひとえ》に、竹のステッキを持っていたが、新子を見ると、
「ああ、お早う。」と、呼びかけて、
「貴女は、お若いのに早起きですな。今朝だけですか、それとも習慣ですか。」
「今朝は、特別でございますけれども、家におりましても、朝は早い方でございます。」
「そうですか。じゃ、昨夜《ゆうべ》、申し上げた日課を改めましょうか。子供達も、休み中なるべく早起きの習慣をつけたいと思っていますから……」準之助氏は、新子をうながすように、小径を先に立って歩きながら、
「じゃ、朝食前に、小太郎に読み方と算術を教えて下さい。そして、十時に女の子の勉強を見て頂いて、午後二時にまた小太郎に、ほかの学課の復習をしてやって下さい。」
「かしこまりました。」と、新子は頭を下げた。
「今日から始めて頂きましょうか。」準之助氏は、昨夜《ゆうべ》と今朝と、新子と話をするごとに、よりふかく新子に満足してくれるらしかった。
「食事は、みんなと一しょに食堂で召し上って下さい。それから、夜は一切貴女のご勝手にして下さい。こっちの書庫にも割合本がありますから、読みたいものがありましたらご遠慮なく。」
二人はいつか、裏庭の芝生に出ていた。大きな柏の下に、山羊が、二匹つないであった。
家からは、人声が洩れ、かん高い幼い声も交った。
「お子さま達も、お眼ざめのようですわ。」
「そうですな、後で、貴女の授業ぶりを拝見したいですな。」
「お恥かしいけれども、どうぞ。」
準之助氏は、新子に庭内の樹や草花の名前を教えながら庭内を一廻りした。
――七時から初めての授業。小太郎は物解りのいい子であった。そして、先生が新しくって珍しいせいか、熱心に応《こた》えたりきいたりして、無事に授業がすんだ。
準之助氏は、遠くはなれたソファに腰をおろしながら、始終ニコニコしながら、満足そうに新子の教えぶりを見ていた。
五
二時から、小太郎に地理や歴史などの復習をしてやると、あとはかの女の時間であった。
主人や子供達と一しょに、お茶を頂くのも新子には楽しかった。
二、三日のうちに新子は、すっかりこの生活に落着いてはれやかになった。ただ、夫人が東京から来る時が近づいて来るのが、不安だった。
三日目の晩、美沢に手紙を書いた。
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どうか安心して下さいませ。
こちらの生活は、とても楽しゅうございます。健康で、ご飯までがおいしく頂けます。
それに、このお手紙を書いている私の部屋のよい匂い、高原の草の香りが、しみ込んでいて、どんなよい床まき香水もこの匂いには敵わないでしょう。
前川氏は、万事外国好みですの。だから、私なども、一個の貴婦人《レディ》として、とても大事にして下さいますの。
洋書も和書も、沢山ございますわ。別荘に、これだけの書庫を持っている実業家なんて、ほかには滅多にないと思いますわ。
旦那さまと、お子さまだけをこちらへよこして、奥さまは、まだ東京にいらっしゃいますの。奥さまのご交際の都合だとのことですの。
私は、ほんとうに気が晴れやかですわ。
東京で姉や妹の生活を見て、ジリジリしているより、どんなにいいか分りませんわ。
お子さまに、一日三時間お相手をすれば、後は私の時間ですの。私の時間には、絶えず貴君《あなた》のことを思いだしております。
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来てから四日目、お茶の時間に、小さい兄妹は、お昼寝をしていたため、新子と準之助氏とだけで、お茶をのんだ。お茶が済んでも、準之助氏が何だか所在なさそうなので、新子は何となく立ち去りかねていた。
「貴女は、ダイヤモンド・ゲームをおやりになりますか。」
「はあ。」
「じゃ、一つお相手しましょう。」
「どうぞ!」
準之助氏は、笑いながら、向うの玩具《おもちゃ》棚から、ダイヤモンド・ゲームを持って来た。
二人は、かなり身近く相対した。二人は、お互に子供らしく緊張しながら、駒をうごかしはじめた。新子は、英学塾の寄宿舎などで、お友達の誰とやっても、なかなか負けなかった。この遊び方のコツといったものを呑み込んでいた。
準之助氏は、手もなく負かされた。
二度目に駒を並べるとき、新子はいった。
「お母さまが、いらっしゃらなくっても、お子さまは、たいへん、大人《おとな》でいらっしゃいますね。」
「普段から馴れていますから、私の家では、(ママ! パパがお帰り)なんていうことはめったにありませんよ。大抵、(パパ! ママがお帰り)というんですからな。」と、上品にほほえみながらいった。
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主人の心
一
新子は、思いがけない言葉に、ふと相手の心の底をのぞいたような気がして、合槌《あいづち》にこまって、だまって相手を見ていると、準之助氏はつづけて、
「僕も、妻がいない時の方が、かえって気楽ですよ。」と、何気なくいった。
聴いてはならない言葉である。
「まあ! そんなことございませんでしょう。」というよりほかなかった。
「いいや、男女が二人して作る生活に、幸福なんて滅多にないのじゃありませんか。夫婦生活も、楽しいのは最初のうちだけで、お互に生地《きじ》を出しはじめると、月並な文句ですが、墓場ですな。」
新子は、主人の思い切った言葉に、あわてながら、
「そんなものですかしら!」と、辛うじて答えた。
準之助氏は、いい過ぎたと思ったらしく、
「ああ、悪いことをいいましたね。僕は……独身の貴女《あなた》を前にして、……しかし、夫婦生活なんて、両方であきらめるか妻か夫かの一方があきらめるか、どちらかのものですよ。僕の家なんか、僕が早くからあきらめていますから、十五年にもなりますが、けが[#「けが」に傍点]もなく過ぎて来ているんです。いや、これはとんでもないことを申しました。さあ、どうぞその駒をおすすめ下さい!」新子は、ひどくのどかな気持でいたのに、準之助氏のこの思いがけない話題で、すっかり気持が乱れた。
もう、子供のようにダイヤモンド・ゲームなど、やっていられる気持ではなかった。強いて駒を動かそうとしても、考えがまとまらなかった。
折よく、目覚めた幼い兄妹が、歩調を合わせて、廊下を駈けて、この部屋へ走り込んで来てくれたので、新子はホッと救われた気持になった。
祥子は、新子の肩にすがりながら、
「南條先生、ずるいわ。パパと二人ぎりで、お茶をめし上って、なぜサチ子を呼んで下さらないの?」と、わる気はないが、詰問だった。
「あら、ご免あそばせ。でも、祥子さんは、ほんとうに、よくお休みになっていたんですよ。お起しするのがわるいくらい。」
「そうお。ダイヤモンド・ゲーム、サチ子としましょう。」と、祥子がいうと、
「祥子がすんだら、僕とだよ。ねえ、先生!」と、小太郎は自分の順番を確保した。
子供達と、ゲームを争いながらも、新子は準之助氏の言葉が、気になって仕方がなかった。
そして、ふと準之助氏の方を見たとき、相手の眼が、あまりにも自分の方を、親しげに見つめているので、更に心の平静を乱された。
二
晴れた日と澄んだ夜と、高原の夏は、人の身体から、汚ないものを吸い取ってしまうような気がした。
翌日は、二時の復習が了《おわ》ると、子供達は父と散歩かたがたアメリカン・ベイカリへ行く嬉しさで、無遠慮になっていた。
「先生のお洒落《しゃれ》! パパは、もうお支度が出来ているのに……」小太郎は、新子の部屋の扉を開けて、足踏みをしながら叫んだ。
新子が、パラソルの中に、祥子を入れて玄関を出た時には、小太郎とその父は、白樺の繁みで手を振っていた。
ニュウグランド・ホテルの前を通って、陽の眩《まば》ゆい草原の道を真直ぐに進みながら、小さい兄妹はえんじ[#「えんじ」に傍点]色にうれた野苺《のいちご》を見つけて、わざと草深い中を歩きながら両手にあまるほど苺を摘んだ。
「こんなの、甘いよ。」と妹に云いながら、小太郎が、大きな紅玉を、唇に持って行きそうにすると、
「およし。チブスになるぞ!」と、父は急に乱暴に、厳しい調子で叱った。小太郎は、いさぎよく赤い粒を、地面にバラバラと落して、父のステッキを持っている手の甲に、犬のように頬を押しつけた。それが、新子には愛らしく無邪気に見えた。
やがて、草原の末に、ベイカリの屋根が見えると、兄妹は駈けっこを始めた。
新子は、準之助氏と並んで、それを見送りながら、歩調は変えなかった。
「貴女《あなた》は、当分結婚なさらないのですか。」いきなり準之助氏は、新子に訊いた。
「あら、どうしてそんなことを、お訊きになりますの。昨日《きのう》は、結婚生活をつまらないとおっしゃったじゃありませんの……それに、私は駄目ですわ。私が、結婚しますと、私の家の中心になるものが無くなりますの。私は、つまり働き蜂に生れついていますの。」と、明るくいって、それから一家の状態を、恥にならぬ程度で、打ちあけた。
準之助氏は、一々しみじみと肯《うなず》いて聴いていたが、ふと兄妹達が駈けて行ったベイカリの通りを一台の自動車が疾駆して来たのを見ると、ハッとして立ち止まった。万一、子供達が自動車に触れはしないかと心配したのであろう。
だが、自動車が行き過ぎてしまうと、砂ほこりを浴びながら、兄妹はこちらを向いて手を振っていた。
二人が、お互に安心した
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