り!」と、何かうれしいことがあるらしく、おのずからはずむ声高く呼びかけたのは、思いがけもない妹の美和子である。

        七

「まあ、美《みい》ちゃん、こんなに遅く!」と、新子は、つい自分の遅いのも忘れて、姉らしくとがめた。
「だってえ。相原さんのところに九時までいたんでしょう。それから、靴下を買いに銀座へ廻ったんでしょう! 遅くなるはずよ。それよりも、お姉さん、わたしとてもいい人に逢っちゃったのよ。」と、息をはずませている。新子は、妹の逢った人など、およそ興味がないといったように、だまって足早に歩きつづけていると、
「ねえ。お姉さん、誰だか当ててみないこと。」
「知らないわよ。」少し邪慳《じゃけん》につっぱねると、
「ううん。お姉さまの知っている人よ。」と、思わせぶりな、口のききように、新子もやや釣り込まれて、
「だあれ。」と訊くと、
「当てなきゃ云わない。」と、今度は妹の方でじらしにかかるので、
「じゃ聴かない。」と、新子ははしゃいでいる妹の気持に、つき合うのが少しうるさくなっていると、
「お姉さんのとてもよく知っている人よ、私、相原さんのところで、逢うなんて、とても意外だったのよ。」と、甘えかかって来た。
(美沢かしら)と、さすがにわが愛人の名を、最初に思いうかべていると、妹は素直に、
「美沢さんに会ったのよ。」と、いった。
「そう。」と、うらさびしく答える姉の返事など、待っていず、
「珠子さんの兄さんが、新音楽協会の人で、とてもハンサム・ボーイを連れて来るといって騒いでいるんで、私どんな人かと思って待っていると、はいって来たのは、美沢さんでしょう。私、とてもおかしかったわ。美沢さん、先生をよして(新協)へ入ったんですってね。」
「………」新子は、何か悲しく、返事が出来なかった。
「お姉さん、ご存じなかったの。先生、およしになったんだって! だから、私大賛成だと云ったわ。だって、あの方、天分がおありになるんでしょう。いつか、お姉さん、そうおっしゃっていたわねえ。女学校の先生なんかしているより、よっぽど、その方がいいわ。ねえ、そうじゃないこと。」
 美沢のことを、何かわがもののように話している美和子が、まだ年端《としは》の行かぬ妹とはいえ、何かうとましく、新子はいよいよおしだまっていた。
 赤い産婆の軒燈のついた家に添うて、わが家のある路次へ曲るとき、
「美沢さんという方、思いのほか親切な方ね。」と、美和子は、楽しげなといき[#「といき」に傍点]のようにいった。

        八

 姉妹が帰ったとき、母はまだ起きていた。
 圭子は、二階で勉強しているとみえて、階下《した》へ降りて来なかった。
 美和子は、すぐ二階へ上ってしまったが、新子は母と二、三十分、着物を着換えながら、前川家のことなど、少し話してから自分の部屋へ上っていった。
 美和子は、新子の部屋で、一しょに寝ることになっているので、もう床の中へはいり、うつぶせに雑誌を見ていたが、後からはいって来た姉を上目づかいで見た眼には、まだ楽しそうな微笑があふれて、もっと、何か話したそうである。
 新子は、自分が美沢の家で、待ちくらしている間、妹が美沢と楽しく遊んでいたのだと思うと、心の平静が失われて、この上不愉快なことを聴くまいと、クルリと背を妹に向けて、床にはいった。
「ねえ。お姉さま!」美和子が、姉の背中に話しかけた。
「ほら、靴下が破けたから、買いたいって、云っていたでしょう。相原さんのお家を出てから、気がついたの。だから、私美沢さんとお別れして銀座へ行こうと云うと、あの方、ご一しょにいってあげましょうかって、……円タクを停めて下さったのよ。そして、靴下を買ってから、ジャーマン・ベイカリでお茶のご馳走になったの。あの方見かけよりは、ずーっとご親切ね。家へいらっしゃる時なんか、つーんとしていていやだったけれど、二人ぎりでお交際《つきあい》すると、とてもいいわ。気に入っちゃった。フレドリック・マーチの小型みたいで……」
 新子は、背中一杯に針をさされるような気がした。
「お姉さま、聴いていらっしゃるの……」と、新子の沈黙をゆりうごかしてから、独り言のように、
「美沢さん、この頃、とても忙しいんですって――新協では、才能次第で、グングン月給が上るんですって……だから、美沢さんは夢中で勉強しているんだって、いっていたわ。明後日放送があるんですって、だから明日は八時までに練習所へ、顔を出さなきゃいけないんですって……練習所は、荏原《えばら》の方だから、早起きしなければいけないんですってね……」
 美沢の噂《うわさ》をするのなら、せめて(お姉さんによろしくといっていたわ)とか、(お姉さんに会いたいといっていたわ)とか、あっていいはずである。美沢は、そんなこと、一言も口にしなかったのだろうか。新子は、さすがに少しジリジリして、
「美沢さん、別に私のこと何か貴女に訊かなかった?」と、背を向けたまま訊《たず》ねた。
 思いがけない姉の積極的な問いに、美和子は、ドキッとした。
(私を送ってお姉さんに会いに来るはずだったのを、私が銀座へ連れ出したの)などと答えては、たいへんだと思ったので、
「ううん。何も。」美和子の声は、低く小さく、さりげない夜風のよう。それを聞いた新子は、急に淋《さび》しく胸がふさがった。
 一家の生活問題に及ばずながら立ち向おうと、立ち上ると、その隙間に側《そば》に寝ている肉親の妹が、早くもわが愛人をかき乱そうとするのか。新子は、全身をながれる悲しみを感じて、瞼《まぶた》の裏があたたかくぬれてきた。
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  新子の仕事




        一

 久しぶりの青空である。
 午後からは、カッと暑くなりそうな、日曜日である。十六、七日の藪入《やぶい》りを雨に取られたので、そのつぐないをしようとする小店員。リュクサックを肩に、一晩泊りのハイキングに出るオフィス・ガールや青年達。街も活気に充ちていたが、上野駅は一時に夏が押しかけて来たよう――嬉しげな靴の音や、はしゃいだ下駄の音、午前十時何分かの登山列車は、ほとんど空席のないほど、混雑していた。
 新子は、採用が定《きま》って、前川家の人達よりも、一日遅れて、軽井沢へ来るよう命ぜられた。
「羨ましいわ。これから東京は暑くなるのに、新子姉さまだけが別天地にいられるわけね。いいわねえ。」と、美和子がいうと、圭子までが、
「私も新子ちゃんみたいに、夏休み中だけでも、家庭教師をやればよかった。」と、新子が何か面白ずくで家庭教師になって、涼しい旅行が出来、うまくやっているというような顔をしていた。
「身体を気をつけてね。奥さまや、お子様達の気に入るように……」
 車の外に止《とど》まっている母は、初めて家庭から離れる娘の上を、ただわけもなく不安がっていた。
「お姉さん、私一ペンだけは、遊びに行ってもいいでしょう。」姉の荷物を網棚に置きながら、美和子がいうと、
「ダメよ。」と、にべもない返事に、美和子はしょげた。
 車の外の母が、
「軽井沢は寒いだろうから風邪を引かないように……」と、窓から首をさし入れて、念を押した。
 圭子も美和子も、次々に乗って来る人達に押し出されるように、プラットフォームに降りてしまった。
 ベルが鳴った。
「さよなら。」
「気をつけてね。」
 車が動くと、見送人は吹き寄せられたように取り残される。はしゃいでいる美和子は、汽車と一しょに走って、フォームのはずれまで来て手を振った。
 新子は、とうとう美沢とは会わなかった。美沢は、前夜の手紙に対し返事を速達でよこし、急に会いたいといって来たが、それと同時に軽井沢行きが定って今日の出発となった。
 会いたくもあったが、しかし会わないで行く方が、余情が多いようにも思った。
 どうせ、簡単に結婚できないとすれば、ある間隔を保っていた方が、お互のためにいいのではないかと思った。
 それに、美和子などが、あんな調子で甘えかかっていても、そうやすやすとは心をうごかす美沢でないことを、新子は信じたいと思った。
 だから、美沢のことは、比較的安心が出来た。心配なのは、やはり準之助夫人である。昨日《きのう》夫人からもらった採用通知の電話の最初の言葉なども、嫌だった。
(主人ともいろいろ相談致しましたが、こちらはどちらでもよろしいんですけれども、貴女《あなた》が非常にご希望のようですから……)という切り出しだった。何事にも高飛車に、上手《うわて》から出ようという態度が、二、三分間の電話の中でも、新子を不快にした。

        二

 生活への最初の出発、昔からいう初奉公の不安、それに難物の夫人、東京を離れた刹那《せつな》から、新子はやはりかるい物思いに沈んだ。
(あの夫人と衝突して、半月や一月でよすくらいなら、いっそ最初から行かない方が……)と、考えたりした。しかし、夫人が昨日の電話での物のいいぶりや態度でこちらを不愉快にさせながら、
(お礼は、五十円くらいは、さしあげられると思いますの)と云ったことは、彼女をよろこばした。一時は、夫人に対する不快を忘れさえした。
 その上、新子は子供に好かれる性質《たち》であったし、彼女自身子供に愛着を感じ、子供と心から遊べる性質《たち》であった。
 だから、前川家で、一夜晩餐を共にしただけで、もうすっかりお仲よしになり、帰りには彼女の肩につかまった小さい兄妹を考えると、彼女は頼もしくも思えたし、ある楽しみをも感じた。
 高崎あたりから、うすぐもりの空となり、熊の平では、かしこの峰、ここの谷に、うす白い霧がまい下りて、ひんやりと浮世ばなれのした風が、窓から出した頬を吹きわたるのだった。
(いいわ。奥さまが、我慢できなければ、他に就職の途を見つけるとして)と、唇にしみじみ山の気を吸いこむと、どうやら彼女の気持は明るくなったような気がした。
 軽井沢の駅には、小さい兄妹が、十六、七の女中につき添われて出迎えに来ていた。
 青い草をもてあそんでいた小太郎が、いちはやく彼女を見つけると、草の茎で窓をポンポンと叩いた。
 祥子《さちこ》は、
「先生、もっと、早い汽車でいらっしゃればいいのに、私とても待ちどおしかったのよ。」とおませな口を利きながら、すぐ新子の手にすがって来た。
 やや憂鬱であった新子の車中の顔は、子供達の歓迎で、のどかなきよらかな笑いでかがやかしくなった。
「路子叔母さまは、いらっしゃらないんですの?」と、新子は、子供達に訊いた。
「路子さんは、房州よ。三谷の伯父さまのところよ。」と祥子が答えた。
(お母さまは?)と、訊きたかったが、両親のことは、何かにつけ訊かない方がいいと思ってよした。
 待っていた自動車に乗った。
 湿った街道に、うす日がさし、まるで砂ぼこりのような霧が、サッサッと舞い上っていた。
 別荘は諏訪の森の近くであった。
 表向きは、天然のひろやかな庭に二つの石柱が建っているばかりのように思えるのに、小径を辿《たど》って行くに従って、両側の白樺並木の、しだれた若い緑の繁みごしに、ヴィラの傾斜のなだらかな屋根と、カーテンの揺れている白い框《かまち》の窓が見え、繁みが切れると、玄関のポーチまで、一面の花園で、その真中を気持のよい芝生の小径《こみち》が通っている。

        三

 ポーチの脇に、兄妹の緑と赤との愛らしい自転車が置いてあった。
 別荘は、しんとしていて、絶えずよい草の香りのする風が吹き、しきりなしに鳴く郭公《かっこう》の声が遠く近くきこえるばかりであった。
 運転手が、新子の荷物を運び入れてくれると、奥から三十ばかりの女中頭らしいのが出て来て、
「いらっしゃいませ、どうぞ、お部屋をご案内したします。」と、どんどん先へ立って行こうとするので、
「あの、奥さまに、ご挨拶したいのですが……」というと、
「奥さまは、来週の水曜まで、東京にいらっしゃいますので……」
「まあ……じゃ、こちらは……」と訊くと、
「旦那さまと、お子さまだけでございます。旦那さまは、ただ今
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