めなかった。
 美和子のそうした態度は、美沢が一歩部屋にはいると同時に、たちまちうら若い令嬢達の注視の的になったのを見てとって、自分がいかに美沢と親しいかを、お友達に見せびらかしたいという肚《はら》もあったのだ。
 美沢が、美和子の姉の新子と知り合ってから、もう二年になる。二人は、友人であるといってもよいし、愛人同士であるといってもよいような、即《つ》かず離れずの間だった。
 しかし、新子も恋愛だけに夢中になるのには、聡明すぎたし、美沢は美沢で、恋愛に夢中になるのには、あまりに生活の負担が重すぎた。
 かれは、音楽学校を出ると、すぐ母と弟とを養わねばならなかった。だから、かれは卒業と同時に、小さい私立女学校の音楽教師になってしまった。しかし、かれの芸術的野心や情熱は、そうした生活では充《み》たされなかった。
 その上、かれは美男であったから、女学校の教師には不適任であった。
 思慮もなく、ただ無分別に、うろうろと、あこがれの瞳をよせる少女達に、小突《こづ》きまわされて、かれは当惑した。その上、周囲の教師達の猜疑《さいぎ》と嫉妬との狭量な眼《まなこ》もいやだった。
 結局一年と一学期辛抱した後、このほど思い切って、好きなヴァイオリンの試験《テスト》を受けて、新音楽協会の練習所員となった。
 初給は四十五円。教師のときよりも、ズーッとわるかった。新子に結婚の申込などする勇気はいよいよなくなった。しかし、公演もあり、放送もあり、技を磨くには絶好の職業であった。芸術家としてのかれの人生の曙光《しょこう》は見えた。
 新子には、職業替えをしたについて、すぐ手紙を出した。新子からの返事の中に、
 練習所の方が気分がよろしいとのこと、結構ですわ。でも、月給は安いんでしょう、貴君《あなた》は、自尊心がありすぎるから、蔭ながら心配していますわ。でも、生活の問題なんて、芸術家の貴君には、下らないことなんでしょう。……私は、この頃だんだん愛嬌者になって行きますわ。……
 というような言葉があった。
 かれは考えさせられたり、何だか腹が立ったりして、そのままになっていた。

        三

 新子は、彼女の愛人のことについてなど、一切妹に喋らなかったから、美和子は、彼が先生を廃《よ》したのを知らなかったのである。だから、新音楽協会の人といわれて、まごついたのである。
 それに、美和子が、彼の好青年《ハンサム・ボーイ》ぶりをからかっているのも間違っていた。もっとも、美和子も冗談半分にいっているのであろうが、彼はたしかにあるタイプのハンサム・ボーイだった。中肉中背、やや整いすぎて気むずかしそうに見える顔立ちではあったが、眼が向き合えば、心清げに笑いかけるのが、少女達にとって一つの魅力らしかった。とにかく、少女達の注意が彼に集まれば集まるほど、美和子は美沢をからかったり、弥次ったりした。しかし、どんなにからかわれても美沢は愛人の妹である美和子には、絶えず親しい微笑をつづけていた。
 折を見て、
「新子姉さんは?」と、美和子に訊いた。
「私、お姉さんの番人じゃないことよ。」いたずらっこらしい眼をクルクルさせた。
「これは失礼! でも、貴女《あなた》がお出かけになるときは、お家にいらっしゃいましたか?」
「ええ。それはいたわ。」
「じゃ、今日多分お家にいらっしゃるでしょうね。」
「いるかどうか、今日帰るとき私を送っていらっしゃれば! 分りますから。」
「じゃ、そういうことに致しましょうかな。」と、美沢は結局美和子に、うまく送らされる約束をしてしまった。しかし、彼も美和子を送るという口実で、新子を訪ねたかった。
 そして、新子に自分が、職業を換えた気持をよく説明して、かの女の手紙にいささか現れている皮肉や批評を取り消してもらいたかったのである。
 だが、晩餐までは、トランプや、新ルードや、カロムなどでさわぎ廻り、晩餐がすんでからは、レコードをかけてダンスが始まったので、時間はグングン早く進んだ。
 美沢が、明朝八時から練習があるので、七時前に起きなければならぬのを思い出して、急に暇《いとま》を告げた時は、九時を少し廻っていた。
 もう、美和子を送って、新子に会おうなどという考えは捨てていた。
 だのに、美和子は美沢が、帰りかけたのを早くも見つけて、
「美沢さん。帰っちゃうの。私も、帰るから、送って頂戴ね。」先刻の約束をちゃんと覚えていて、みんなの前で、宣言した。
 美和子は、お友達にからかわれながら、美沢に寄り添ってその家を辞した。

        四

 お友達のひやかしや、いろいろなお別れの言葉を背中に聞き流して外へ出ると、まだぬか雨がふりしきっていて、七月とは思えないほどの、うすら寒い夜であった。
「私の傘つぼめちゃうわ。貴君のに、入れてね。」美和子は、自分の小さい洋傘《アンブレラ》をつぼめると、美沢の手にすがって来た。
 小柄で、まだ子供子供している上に、愛らしくはあるが、色っぽくはないので、そんなに近々と身を寄せられても、てれくさくないばかりか、肩に手をかけて歩いても、恥しくないほど、時々と愉快である。
「美沢さん、家へ送って下さるんでしょう?」
「そうね。遅くなったからな……」
 新子に会えば、この上遅くなるし、それに新子の家では、姉妹《きょうだい》達がいて、思ったことも話せないし……と美沢は考えた。
「ウソつき!」水だまりをよけながら、美沢の肘《ひじ》に、すがっていた美和子の手に重みが加わった。
「あした、八時から練習があるんですよ。明後日《あさって》放送だもんだから……」
「あなた先生よしたの本当?」美和子はまだ半信半疑であったらしかった。
「本当ですとも。」
「いいわね。私、大賛成だわ。美沢さんは、天分があるんですってね。」お世辞ではあろうが、新子の手紙よりはズーッとうれしかった。
 二人は、バスの停留場に出ていた。
「これから、銀座へ出ても、もうお店起きてないかしら?」
「まだ大丈夫ですよ。」
「ねえ、美沢さん。一しょに銀座へ行かない?」
「何か用事があるのですか?」
「靴下を買うのよ。これ穴が開いているんですもの。お姉さま、お金ちっとしかくれないから、一円五十銭のを買うの。美和子悲しいわ。」見栄もなく、正直になげくので、美沢は何となくいじらしくなった。
「でも、僕はあした早いから……」
「いいじゃないの。私、円タクをおごるわ。」
「円タク賃ぐらい、僕が出してもいいけれども。」
「じゃ、行きましょうよ。ねえねえ。」美和子は、両手で洋傘《こうもり》を持っている美沢の手を、一、二度ゆすぶった。
 美沢は、とうとう通りかかった円タクを呼び止めて、銀座まで五十銭に値切った。
 時間が遅いので、新子に会うのを断念した自分が、美和子につき合わされて、銀座へなどと思うとくすぐったい思いがしたが、しかし朗かさそのものである美和子と一しょに居ることも、愉《たの》しいことに違いなかった。
 第一、美和子は、新子のように批評的に、皮肉に人を見たり考えたりしなかった。

        五

 美和子が、靴下を買うのにつき合ってから、ジャーマン・ベイカリで、一しょにお茶を飲み、数寄屋橋まで歩いて、別々の電車に乗り、美沢は本郷弥生町の家に帰って来た。
 ささやかな門のついている暗そうな借家であった。
 狭い玄関に上りかけたとき、母が出迎えて、
「お帰り、ほんの一足ちがい――新子さんが、八時半頃お見えになって今しがたまで、いらっしたのよ。」と、云った。
「へえ!」内心の驚きと口惜《くや》しさとをこらえて、無愛想に云うと、二階の書斎へ上って行った。美和子などにつき合ったばかりにと思うと、新子にひどくすまない気がした。
 二階は、八畳一間。床の間に、清々《すがすが》しい白百合と、根じめにりんどうの花が生けてあった。花をよく持って来てくれる新子が、自分を待つ間の手ずさみだと思うと、銀座行きがひどく後悔されて来て、何かしら自分と新子との愛情に凶相が萌《きざ》したような気がした。
 彼は、黙々として卓子《つくえ》の前に坐った。と、手元に彼の使っている白い封筒がふくらんで、きちん[#「きちん」に傍点]と、置かれているのに気がついた。
 思いがけない嬉しさに、救われたような気がして、乱暴に封を切った。

[#ここから1字下げ]
私とうとう働くことになりましたの。家庭教師です。今日、お目見得、多分採用される見込み、前川準之助って実業家の家……ご存じないかしら、私のお友達のお兄さんよ。
子供さん達は、みな素直な良い子らしいの。ただ前川夫人が少し難物、一ひねりも二ひねりもありそうな人物。でも、私おおいに奮闘してみるつもり。私が、働かないと、だんだん家中干ぼしになる怖れあり、貴君は家庭教師など、不賛成かもしれませんが、どうかあしからず。
二、三日の内に軽井沢へ行きます。貴君もお忙しいようだし、多分秋までお目にかかれません。お花を買って来て、よかったわ。あまり、このお部屋殺風景じゃございません? 物干しに、朝顔の鉢でも、お置きになったらどう? 私のような、麗人を迎えるのに、ふさわしくないわ。レコードだけじゃ、物足りないじゃありませんか。
でも、レコード聞かせて頂いたわ。ラローのスペイン交響曲、とてもいいわ。貴君を待っている気特にぴったりしていたかもしれません。
お煙草、チェリイが一日に四箱ですって、お母さまに伺ったのよ。二箱になさっちゃどう?
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]しん子
   直巳様

 美沢は、美和子につき合った浮気心を、我ながらいよいよ情なく思った。

        六

 新子は、十一時まで美沢を待っていた。かの女は、美沢が近頃猛練習で、忙しいのを知っていたから、今宵会わなければ、軽井沢へ行くまでに、会う機会がちょっと得られないことを知っていた。
 しかし、三時間近く待っていてさらにそれ以上待つのは、自分の心の底を見すかされるような気がしていやだった。
 十二時近くまで未練がましく待って、それでももし帰って来なかったりしたら、いよいよ引っ込みがつかなくなると思ったので、十一時になったのをキッカケに、体《てい》よく美沢の母に暇乞いして、帰途についた。
 新子は、美沢と交際《つきあ》ってから一年以上になるが、その間に美沢の欠点も美点も、すっかりのみ込んでいた。美沢が芸術至上で、自分の芸の完成にどんどん邁進《まいしん》して行くところは好きだった。金は無くても、芸術貴族として、世俗に対し、気むずかしそうに、眉をひそめているところなど好きであった。しかし、それでいて彼女の現実的な考え方から、時々美沢に、「ヴァイオリニストで、ちゃんと一家を持って行っている人は、日本に何人いるのかしら。」など云って、美沢をいやがらせていた。
 実生活でも、美沢は質屋へ行った話をしながら、時に驚くほど高価なネクタイをかけていたり、趣味のいいステッキなどを持っていた。
 貧乏でも、貧乏たらしくないところなど好きであったが、しかし結婚すべき良人《おっと》としての美沢を考えると、前途は遼遠としていた。
 どちらかに、馬車馬のように猛進する情熱のない限り、金のないインテリ階級にとって、結婚難は現代の宿命の一つだった。
 だから、二人とも結婚について語ったり、愛について語ったことはなかった。しかし、二人の間は美しいひもに結ばれているように遠慮のない交際ぶりから、ちょっといさかいをしても、一週間も経てば、元通りになり、しばらく手紙も書かず、会いもしないでも、常にお互に快く思い起していた。
 だから、会わずにこのまま、軽井沢へ行ったところで、二人の間にどう影響するという間柄ではなかったが、でも新子は何となく物足りなかった。
 電車から降りて三町ばかり、もう人通りの少くなった路次を通って行く、新子の心はさびしかった。
 と、ハイヒールの靴音が、大またに自分を追うて来たかと思うと寝しずまった町並の家の安眠妨害になりはしないかと思われる大声で、
「あら、新子姉さんじゃないの。今頃、お帰
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