その声の調子にさえ、ゆかしい薫りのようなものが、感ぜられた。
 その上、準之助氏の話しぶりでは、もう自分を雇ってくれることは、定《きま》っているようなものであった。
 働くと決心した以上、軽井沢へ付いて行って、早く子供達になじんだ方がいい。九月まで待っている内に、前川家の事情が変ったりしては、いけない。殊に、奥さまは、気まぐれだというんだもの。
「はあ。どうぞ、私はどこへでもお伴いたしたいと思います。」

        三

 呼鈴《よびりん》に答えて、はいって来た女中に、
「子供達をここへよこしてくれないか。」と、命じた。
 間もなく、小さい足音が廊下に入り乱れて、扉があくと、路子に連れられて、兄妹がはいって来た。前川氏は、ふり返って十二になる男の子の頭に手を置くと、
「小太郎というんです。」と、やさしく名を呼び、父らしい微笑の眼で新子を見た。
 短いズボンの下に、かぼそい足が、むき出しになっていた。モジモジしながら新子に頭を下げると、すぐ父の肩につかまった。
「これが祥子《さちこ》。」前川は、今度は右側の女の子の頭に手を置いた。
「この子は、まだ家庭で勉強させる必要はないんですが、兄がやるもんですから自分もしたがってきかないんです。この方は、オマケですな。」
「まあ、かわいいお嬢さん!」
 新子は、心からそう思った。大きな眼を早くも、クルクル廻して、人なつかしそうに、早くも新子にほほえみかけながら、子供らしい元気なおじぎをすると、傍《かたわ》らの若い叔母の手にぶらさがった。
 路子は、ぶら下がられて、中腰になりながら、
「さっちゃん、貴女、お使いが出来るかしら……出来ないわねえ。きっと。」
「ううん。出来る、何でも出来るわ。何……」
「ではねえ、ママのところへ行って、およろしかったら、応接間へいらしってと、申し上げて来てくれない……」と、祥子にいってから、兄に、
「ねえ。お兄さま、お義姉《ねえ》さまにも、今ついでに会って頂いた方がいいでしょう?」と、兄の承諾を求めた。
 何事につけても、義姉に対して気をつかっているらしい容子《ようす》が、新子の心を少し重くした。
「ああいいだろう。」前川氏はおうよう[#「おうよう」に傍点]に肯《うなず》いた。
 女の子はもう一度新子を見て、目をクルクルさせると、一散に部屋を出て行った。
 しばらくすると、かわいい足音が廊下にきこえて、前よりもっと勢いよく、呼吸《いき》をはずませながら、かけ込んで来た祥子は、父と叔母と新子と三人を等分に見廻しながら、父に、
「ママは、今ご用ですって! しばらく待っていて下さいって――」
「そう、ありがとう。」と前川氏は、子供をいたわったが、すぐ新子に、
「しばらく、どうぞ。」と、挨拶した。
 子供に関する話題を中心に、三人の間にしばらく話が交わされ、二十分ばかり時間が経ったが、夫人は容易に現れては来なかった。
(何につけても、こんなに勿体《もったい》ぶるのであろうか。家庭教師の候補者などには、そうやすやすとは会わないという肚《はら》だろうか)そんな邪推が、新子の心に、ようやく萌《きざ》し始めた。

        四

 夫人の姿は、現れずして三十分近く経った。
 準之助氏はたまりかねたと見え、
「今度は、お前が行って、ママを呼んでおいで!」と、小太郎を迎いにやった。
 いつかまばゆいシャンデリヤに、灯《ひ》が入って、雨の日の昼の光では、やや重苦しく冴えなかった部屋が、急に花やかに照り返った。
 やっと、廊下にほのかな衣《きぬ》ずれの音がしたかと思うと、半ば開かれた扉から、夫人が長身の姿をあらわした。
 それを見ると、新子はいちはやく椅子をはなれて立ち上った。
 その新子に、夫人はほほえみもせず、頭《ず》の高い挨拶をして、良人《おっと》と並んだ椅子にだまったままで腰をおろした。
 主人からは、対等に扱われていたのが、たちまちドスンとばかり、雇人志願者の位置に突き落されているのであった。
 いつか劇場で見た感じよりも、ずーっと若々しく、顔の色は浅黒く生々としているし、高貴に取りすましながらも、眼にも驚くほどの艶《つや》があり、気品と明快さと堂々たる奥さまぶりで、準之助氏と並べて見劣りせず、夫人がそこに腰かけたことで、この応接間の画面の感じは、その仕上げを受けて、最高の生彩を発揮したといってよかった。
 眼立たないが、贅沢《ぜいたく》至極な好みの衣裳で、気持のよさそうな博多の単帯《ひとえおび》で、胴のあたりを風情《ふぜい》ゆたかにしめあげていた。
 新子は、路子の注意を聴いているし、自分に会うために、衣物《きもの》を着換えたのかと思うと、いよいよかたくなって、すぐには口がきけなかった。
「この方が、南條新子さんだ。」と、準之助氏が紹介してくれたので、
「どうぞ何分よろしく。」と、新子が再び立ち上って挨拶すると、
「お初《はつ》に。お名前はおききしていました。」と、さすがにかるい愛想笑いを見せた。
「どうぞ、勤めさして頂きたいと存じます。」と、新子がいうと、
「はあ。」何かふくみのあるような返事である。
「路子のお友達だし、いいだろう。」と、準之助氏がとりなしてくれると、
「ええ。それは、結構なんですの。でも、家庭教師として、家へ来て頂くとすれば、路子さんのお友達だからといって、ご遠慮ばかりしていられないところも、出来ますから。」
 新子は、急にこの美しい応接間に在って、大きな蛾《が》をでも見つけたように、襟元寒い思いがした。物を云うとき何か、一ひねりしてみないと気のすまない性格だろうか、このような言葉は初対面の折になど、云わなくてもよい、いやがらせであると思って、気持がわるくなりかけたが、ここが路子の注意だと思い、
「はあ。どうぞ、万事奥さまのお指図どおり出来るだけの努力を致したいと思います。」出来るだけ素直に、出来るだけほがらかに答えた。

        五

 新子が出来るだけ、下手《したで》に出ての哀願に、夫人はニコリともせず、
「はあ。宅とも、よく相談しまして、二、三日内に、ハッキリしたお返事をいたします。」と、どこか打ちとけない返事であった。
 もう、すっかり定《きま》ったことと安心していた新子は、急に、夫人の手で三、四尺|後《うしろ》へ、押しのけられたような気持であった。
 新子は、急にバツがわるく路子か準之助かが、何か一言取りなすような言葉をはさんでくれることを望んだが、二人とも何ともいってくれなかった。
「では、何分よろしく。」
 新子は、自分の身が、みじめに感ぜられ、モジモジしながら、暇《いとま》を乞おうとしている機先を、夫人は見事に制して、
「まあ。およろしいじゃありませんか。食事の用意を申しつけてありますから、路子さんや子供と一しょに召し上って下さいませ。私も、ご一しょだといいんですけれど、ちょっとこれから、外出致しますから、あしからず。」といいさして優美に腰を浮かせると、新子が眼のやりばにこまったほど、色っぽい眼差しで、夫君を見おろして、
「じゃ、貴君《あなた》、私は行って参りますから。」と、やさしく、しかし、誇りかに挨拶すると、子供達の方には眼もくれず、部屋を出て行ってしまった。
 子供達は、それでも急いで母の後を追った。
(なるほど、これは相当なものだ!)と、新子は思った。もう自分を雇ってくれることが定っていながら、二、三日の内に通知するなどいうのは、何事にも勿体ぶろうという夫人の趣味であろう、と新子は見てとった。
 それから、新子を晩餐《ばんさん》に招じておいて、それを路子や良人への目つぶしにして、スラリと外出してしまうなど、心得たものであると思うと、新子は、これは、路子のいった通り、生やさしいご主人でないと思った。
 自分に会うために、着物を著換《きか》えたのだろうと思ったことなど、たいへんなうぬぼれだった。
 それに第一、日曜の晩に、良人と子供とを放りぱなしにして、外出する! 普通の奥さまには、とても出来そうもない芸当を、アッサリと、威厳と自信とに充ち、優美な態度を崩さずに敢行する、それは新子にとっては、一つの驚異だった。
 だが、それを見送って、のどやかに眉一つ動かさずにいる準之助氏の態度も、落着いたものだった。(こんなことに馴れ切っているのかしら、それとも止《や》むを得ぬ外出先なのだろうかしら)などと、新子は去った夫人と残っているご良人《りょうじん》とのことを等分に考えていた。
 そのとき、食事を知らすらしい支那風の銅鑼《どら》が鳴りひびいた。
「じゃ、路子、南條さんを食堂へ案内してあげなさい。」と、準之助氏が面《おもて》を吹いて寒からず楊柳の風といったような、おだやかな声でいった。
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  姉の愛人




        一

 家を一足出ると、ストッキングに開いている穴のことなどはすっかり忘れて、美和子がうきうき[#「うきうき」に傍点]と、訪ねて行った先は、四谷からはさほど遠くない原宿であった。
 その昔、下町の華族女学校といわれたほど、校風も生徒も華手《はで》である美和子の女学校は、お友達もみな相当の、お金持の家の娘ばかりであった。
 美和子の親友相原珠子の家も、日本橋の大きな海産物問屋で、原宿の住居も新築のすばらしい邸宅である。
 日本間にすれば、三、四十畳も敷けそうなサロンに、この天気の悪いのにお客が十人近く集まっていた。ほとんどクラス・メートばかりなので美和子は、はればれと、
「今日《こんち》ア。」と、おどけて、珠子のいるソファにトンと腰をおろした。
「美坊《みいぼう》、おそいんだもの。心配したよ。どうしたのさア。」と珠子がいった。
「だってエ。相変らず、お姉さまのガチがうるさいもの、機を見て出て来たのさ。」
 家にいる美和子とは、似て似ぬほど、ほがらかで、しかもお互に男のような、言葉づかいの乱暴さであった。
「とても、今日ラッキイなのよ。お兄さまのお友達で、新音楽協会の練習所にいる人で、とてもハンサム・ボーイを、お兄さまが呼んであるんですって……」
「へえ――」
 キラキラ笑いにうるんだような美しい瞳をみはって、一わたり友達を見廻すと、美和子は、
「で、解った、道理で、ター公のお化粧が念入りだとさっきから、感心していたのさ。」
「チェッ! 生意気いうな。こいつめ!」と、殊子に肩先をつねられそうなのを、仰山《ぎょうさん》に飛びのいて、
「めんちゃい! めんちゃいっ!」と、向う側のソファに逃げた。笑いや、色や香りや、花園のように小鳥|籠《かご》のように、華やかで、騒々しかった。
 その騒ぎの内に扉が開いて、珠子の兄が、笑いながら立った。その背後《うしろ》により添うて、いわゆるハンサム・ボーイ君が控えていた。みんなは、ちょっと神妙にわるびれて取りすました。
 が、美和子はいきなり叫んだ。
「いやだ! 美沢さんじゃないの。」
 美沢も、美和子を見つけると、
「美和子さん、いらっしっていたんですか。僕が来たからといって、いやだはないでしょう。」と、この年頃の娘さん達は、扱い馴《な》れているというように、ゆったりした容子でまず美和子にほほえみかけて、他のお嬢さん達にも、ごく自然な会釈をすると、空席に腰をおろした。
「ねえ、ちょっと美沢さん。貴君《あんた》好青年《ハンサム・ボーイ》かしら?」
「これはどうも……」物に動じない快活な青年の顔にも、てれくさそうな色がひろがった。
 お嬢さん達は、笑いのコーラスだった。

        二

 ひとしきり楽しく笑いおわると、若い沢山の瞳が、一斉に美沢の方を向いて、パチパチとまたたいていた。
 珠子の兄が、頃合を見つけて、
「南條さんとは、お知合いだったのですか。僕の妹珠子です。美沢|直巳《なおみ》君。」と、こんな風に紹介した。
「ほほはほほ、珠子さんが、新音楽協会なんて、おっしゃるから、解らなかったのよ。ヴァイオリンの美沢先生といえばすぐ分ったのよ。それに、ハンサム・ボーイなんていうから、いよいよ解らなくしたのよ。」美和子は、なお悪ふざけを止
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