たたかく眼頭《めがしら》がうるんで来た。
父が死んで以来、母が経済的には不具だということが、露骨に分って来ていた。百円の金は、半月くらいの間に、煙の如く意味もなく、消えるのだろうと思うと、そのために、亡父と母との大事な記念物が、易々《やすやす》と消えて行くことが、新子には悲しかった。
重松は、紙幣を数えて、母に渡し、小銭をも出そうとすると、母はあわてて、
「端金《はした》は、いらないから。」と、あきれるばかりの気前のよさで、ほくほく紙幣を受け取るのであった。その端金《はした》があれば、午後取りに来るはずの電燈代が払えるのにと思うと、新子は、
(妾《あたし》がいるから、重松さん、置いて行きなさいよ!)と危く口に出かけたが、今でも貧乏たらしくすることのきらいな母の気持を傷つけたくないために新子はだまっていた。
重松が帰ると、結局金を持って気の大きくなっている母から、さっき頼まれた姉の書籍代を引き出すことに、気をつかわねばならなかった。
「ねえ。お母さま、お姉さまの本代がいるのよ。二十五円ばかり、その中から出して下さらない?」気のいい母は、かの女の思わく通り、割合機嫌よく、圭子の書籍代を、その内から出してくれながら、
「ほんとうに、あの子は金喰い虫だね。でも、来年学校を出たら、働いてくれるだろうね。」と、いった。
「どうですか。女子大なんか出たって、今年なんか十人に一人くらいしか、就職出来ないそうですよ。それに、お姉さまのような人働けるかしら。」
「だって、そのために学問をしているのじゃないのかい。」
「そうは行かないのよ。お母さん、この頃は男の大学を出たって十人に二、三人しか口がないんですもの。お姉さんなんか、芝居なんかを熱心に研究したって、どうにもなるもんですか。」
「じゃ、お前だんだんお金が減るばかりだし、先々どうなるのだろうね。私は、圭子が学校を出るまで、どうにかして喰べつなげばいいと思っていたんだが……」
「妾《わたし》が、働くつもりよ。」
新子は非生活的な一家の代りに、自分が働くよりしようがないと、つとに決心していた。
六
母と卓子《ちゃぶだい》をはさんで新子は、しみじみと云い出した。
「お母様。私、すぐ働くようになるかもしれないのよ。お母さまも知っているでしょう。前川さんて、私のお友達があるでしょう。この間、他所《よそ》でお会いしたときに、私働きたいって、お話ししたら、ちょうどあの方のお兄さんが、家庭教師を探しているんですって、日曜だったら兄もきっと家にいるから、一度会いにいらっしゃいって、おっしゃって下さったのよ。今日これから、伺ってみて、私に勤まりそうだったら、おねがいしてみるつもりよ。」
「だって、お前は美沢《みさわ》さんと、結婚するのじゃないのかい!」と、母は気をきかして云った。
「いやなお母さま。だしぬけに、そんなことを。」物に動じない新子の頬が、かすかに染まった。
「だって、美沢さんは、随分お前と親しそうじゃないか。」
「私が、今結婚してしまったら、お母さん達どうなるの。」
「それも、そうだけれど……」
「それに、美沢さんだって、結婚できるような身分じゃないわ。それに、お友達としては、いい方だけれど……。とにかく、私午後から、前川さんのお宅へ伺ってみますから。」そう云って、新子はお昼の支度にと、台所へ立った。
ここへ引っこして来たとき、女中には暇を出したが、長年奉公している六十に近い婆やだけは、今更出すにも出せなかったし、母から、つねに口やかましくいわれながらも、それを気にしないで忠実に働き、買物なども一人でやってくれるので、新子はたよりにしていた。
婆やに、昼のお惣菜の指図をしてから、母の居間に、さっき出かけた美和子がぬぎばなしにしていった着物を片づけていた。
「ねえ。お前が働くということ、圭子は知っているかい?」茶箪笥《ちゃだんす》の抽出《ひきだ》しから、手提金庫を取り出して、さっきのお金をしまい込みながら、母が新子に云った。
「いいえ。まだ。」
「一度、相談してみたら、どう? 圭子には、また何かいい考えがあるかもしれないもの。」
「いいですわよ。」
「なぜ。圭子は、長女だもの、お前を一番に働かすなんて法はないわよ。」
「いいのよ。お母さん! お姉さんには、またお姉さんとしての考え方があるのよ。」
「だって、そりゃ――お前の決心を聴いたら、圭子だって、何というか分りませんよ。」
「私、話がきまってから、お姉さんに報告するわ。お姉さんはお姉さん、私は私だわ。じっとしていられない性分ですもの、つまり苦労性なのよ。私は、おおいに働くわ。」
七
それから、三時間ばかりの後に、新子は麹町元園町の前川邸の応接間にいた。
友達の訪れを、心待ちにしていたらしい令嬢の路子は、さっぱりした趣味のよいアフタヌーンを被《き》て、新子を欣《よろこ》び迎えてくれた。
絹ばりの壁や、カーテンの快い色彩、置き棚や卓子《テーブル》の上に飾られた陶器や、青銅の置き物や、玻璃《はり》製の細工物などの趣向のこった並べ方が、その豊かな暮しを現して、すべてがゆったりと溶け合っていた。窓からは、手入のよく行き届いた庭の一部が眺められ、雨に咲いている、くちなし[#「くちなし」に傍点]の強い甘い匂いが、ときどき、かすかにうっとりとするほど、部屋の中に揺れて来るのであった。
三、四年前までは、この家へ二、三度遊びに来たこともあり、こうした応接間の空気などにも、特別に感じ入りもしなかったのであるが、やや切端《せっぱ》つまった就職者として来ているせいもあって、新子は何か不思議な圧迫を感じるのであった。
「今年小学校五年になる兄の子が、あまり甘やかしたせいか、頭はそんなにわるくないんだけれども、学校が出来ないの。」
「男のお子さん……」
「ええそう。いたずらっ子だけれども、性質は素直なの。それから、小学校三年の女の子、この方《ほう》は、どちらでもいい。この方は、面白いかわいい子よ。二人とも、貴女がてこずるような子じゃないけれど、問題は姉よ。」
路子は、新子に比べると、冴《さ》えたところはないが、丸顔で眼も唇もほっそりしていて、豊かな黒髪を短く切って、洗練された衣裳の好みや、金持の娘にしてはすましていない点などで、何となく人好きがした。弾力に充ちた身体は、しなやかで、いかにも快活そうだった。
「お姉さまって?」
「つまり、子供のお母さまよ。」
「じゃ、お兄さまの奥さま!」
「ええ。」愛嬌《あいきょう》ぶかい路子の茶がかった眼が、ちょっと皮肉な笑いをうかべた。
「それは、どういう意味で!」
「貴女、私の義姉《あね》とお会いになったことないかしら。」
「一度くらい、お目にかかりましたわ。」新子は、いつか劇場か何かで、路子といっしょにいるときに、ちょっと挨拶したことを思い出した。
「そうだったかしら。私、貴女なら辛抱して下さると思うけれど、……」
路子は、かわいい苦笑をつづけた後、
「兄は、とてもいい兄ですの。温良で、物分りがよくって、品行方正で……自分の肉親の兄をほめるのはおかしいけれど……」と、路子はしばらくは顧みて、他をいう形だった。
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レディ第一
一
(辛抱とは、どういう意味の?……)新子は、路子と視線を合わしたまま、先を促した。
「兄は、貴女《あなた》もご存じのとおり、長く米国におりましたから、すっかりレディ・ファストなのよ。それもすこし極端なんですの。それに、義姉《あね》は、私の父には主人筋に当る子爵家のお姫さまでしょう。兄も、死んだ母も、三拝九拝して、来て頂いたんでしょう。だから、家じゃまるで、女王さまのような勢いよ。兄なんか、一生文句の云えない呪文《じゅもん》にかけられているように、頭が上らないのよ。前に来ていた家庭教師の方は、義姉《あね》があまりに、家庭教育ということに、理解がないと云って憤慨して出てしまったのよ。だから、貴女は義姉のすることを出来るだけ気にしないことが、大切だと思うのよ。そういうことは聡明な貴女なら何でもなくやって下さると思うのよ。」
「お義姉《ねえ》さまは、全然お子様達の勉強に、無関心でいらっしゃるの、それとも何かにつけて、干渉なさるのですの。」と、新子は訊いた。
「どちらでもないの、まるで気まぐれなの。全然無方針でいて、それで、ときどき何か云い出すらしいのよ。」
話の様子だけで察しても、頗《すこぶ》る難物であるらしい。だが、新子はどうせ働くからは、出来るだけ、やり甲斐のある難局に身を処してみたい気持だった。
「ほら、国語の杉原先生が、新子さんのことをいつか、賞めたじゃないの。貴女なら、どんなむずかしいお姑《しゅうと》さんだって、勤まるだろうって、南條さんは、お姑さんの機嫌ぐらいとるのは朝飯前だろうって、それで私は貴女ならきっと見事つとめて下さるだろうと思ったのよ。」
「いやだわ。あれは、杉原先生が私を皮肉ったのよ。」
「皮肉の意味もあったかしらん。でも、結局は貴女が、クラスで一番|悧巧《りこう》だということを認めていたのじゃない?」
「まあ、路子さんは、いろいろなことを覚えていらっしゃるわねえ。」
学校時代の話が出たので、急にむかしの親しみが、よみがえって来て、新子は路子の好意をうれしく思った。
「とにかく、私出来るだけやりますから、お兄さまにお願いして頂きたいわ。」と、新子は言葉を改めて頼んだ。
「ええ、いいわ。私だって、貴女が来て下さったら、お友達ができていいのよ。出来るだけ、うまく話して来るわ。しばらく、待っていて下さらない?」と、路子は立ち上って奥に入った。
新子は、ひとりとり残されて、路子の云う義姉《あね》のことを考えていた。
すると、一度しか会ったことのない前川夫人の面影が、おぼろげに頭の中に、浮び上って来る。
きかぬ気らしい張りのある眼や、唇元《くちもと》や、背の高い、つんとした貴族的な態度までが、路子の言葉を裏づけているような気さえした。
そして、家庭教師などいう仕事も、決して生やさしいものではないとつくづく思った。
二
そんなことを考えながら、新子が豊かに生い繁った庭の樹立に、眼を移してしばらくぼんやりしているときだった。
扉が、つつましく滑らかに開いて、人かげがした。新子が、ハッと視線を上げると、思いがけなくも、路子の兄の準之助氏が、独り落ちつき払った愛想のいい物腰で、部屋の中へはいって来た。
新子が、あわてて立ち上ろうとすると、
「いや、どうぞそのままで……」と、気持のいい潤いのある、男らしい中低音《バリトン》がそれをさえぎった。
でも、新子は立ち上って、意味もない微笑と笑顔で、初対面の挨拶をすませると、準之助氏は、椅子をちょっとずらせて、新子の真向いに腰をおろした。
上品に刈りこんだ頭、背がすらりと高く、色白く眼が柔和で、四十歳以上と聞いていたのに、三十代に見える若々しさであった。
どことなく明治文壇の鬼才川上眉山の面影あり、近くはアドルフ・マンジュウの顔を、少し四角くしたような、瀟洒《しょうしゃ》たる紳士であった。
口の重い人らしく、何もいいかけないので、新子はかるく腰をうかせると、
「路子さんまで、お願いしておきましたが、私で勤まりますようでしたら……」と、挨拶した。
「はあ。今日は、雨が降りますのに、ご苦労でしたね。今子供達も参るでしょうが、どうもわがまま者ぞろいで、困っているのです。この二十日《はつか》から、夏休みになりますので、本当は九月から、お願いしてもいいのですが、貴女のご都合がおよろしければ、休み中軽井沢の方へ行きますので、あちらへ来て頂いても、よろしいのですが……」と、手をのばして、シガーボックスから、キリアジを取り、火を点じると、やがてゆるやかに紫煙を漂わせた。
新子は、いかにも物なれた優美さに、ある驚きをさえ持った。路子さんが、もっと兄さんに似ていたら、どんなに美しかっただろうと思ったくらいである。物を云う、
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