貞操問答
菊池寛
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)水溜《みずたまり》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)私達|姉妹《きょうだい》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)はかり[#「はかり」に傍点]
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金を売る
一
七月、もうすっかり夏であるべきはずだのに、この三日ばかり、日の目も見せず、時々降る雨に、肌寒いような涼しさである。
今も、小雨が降っている。だが空はうす白く、間もなく雨も降り止みそうな光が、ただよっている。
新子は、ぼんやり二階の居間から、外を眺めている。
路次の水たまり、黒い小猫がぴょんぴょんと水溜《みずたまり》をさけて、隣の生垣の下をくぐった。茶色の雨マントを着た魚屋が、自転車に乗って来て、共同水道のわきで、雨にぬれながら、切身を作り始めた。
豆腐屋のラッパ、まだ午前《ひるまえ》なのである。
「あーあ!」新子は、かるい欠伸《あくび》をした。
とたんに、階段の下から、甘えかかった、
(新子姉さまア!)という声が、弾み上り、ドタドタとかけ上って来る足音がして、勢いよく襖が開いた。
あまり成育しない前に、熟《う》れてしまった果物のような、小柄な、身体全体が、ピチピチした――深々とした眼、小さい鼻、小さい唇の、生々とした新子の妹、美和子である。
「何よう!」新子は、無愛想に、広い聡明な額のうすい細い眉をひそめて、そちらを振りむいた。下顎骨が形よく精巧に発達していて、唇が大きかった。のどかそうな、それでいてひどく謎めいている大きな目が、無愛想な言葉を、やわらげるように、ニヤニヤ妹へ笑いかけていた。
「ストッキングが、みんなどれも満足なのがなくなっちゃったのよ。」
「日曜くらい、お家にいらっしゃいよ。それに、もうご飯よ。雨は降っているし……」
「だってえ、家にいたら、呼吸《いき》がつまりそうなんですもの。渡辺さんとこへ行くって約束してあるんですもの。一時の約束よ、もう支度しなければ、遅くなるわ。」
「じゃ着物になさいよ。」
「意地わるっ! こんなに、ちゃんと着てしまっているのに――」クリーム色のピケで、型ばかりはひどくハイカラだが、お手製らしいワンピースを、大仰《おおぎょう》に手を展《ひら》いて見せた。その胸に、大きな乳鋲《ちちびょう》のように正確な半球が二つ、見事に盛り上っていた。
「少しくらいの穴、かがってはいていらっしゃいよ。」
「かがれるだけは、かがってよ。もう、その余地がないのよ。ほら!」美和子は、姉の膝にストッキングを落した。脚の型のまま、だぶだぶにふくらんでいる膝のあたりに、虫の喰ったくらいの丸い穴があいている。
「これくらい、大丈夫よ。マニキュアのエナメルを塗っておくと、毛が抜けないから。洋服でかくれちゃうわ。」
「うん、そうする。でも、帰りに新しいのを買って来なくっちゃ、お金頂戴!」
「この間上げた五円、どうなったの?」
「少し残っているけれど、ストッキングを買えば、バスにも乗れないわ。」
「チェッ!」笑いをふくんだ舌打ちをして、ねめすえて、五十銭銀貨を二つ出してやると、美和子は現金によろこんで、階下へ降りて行った。
台所へ降りて、昼の支度をと思っていると、
「新子ちゃん!」と、すぐ隣の部屋で、姉が彼女を呼んだ。
二
(新子ちゃん! ちょっと来てよ。話があるの)隣室からの姉の声がつづいた。
「お姉さまも、ご用?」ちょっと、皮肉に笑いながら立ち上った。スラリとした長身、ふくよかな感じはなかったが、清純な仇《あだ》っぽさが――そんな言葉が許されないとしたら――特別な風情が、新子のからだには、流れていた。
襖《ふすま》一重の姉圭子の部屋は、およそ異人種でもが住んでいるほど、区切られて特異であった。
床の間一杯に、おびただしい和書洋書が積み重ねられ、明り取りの円窓の近くに、相当古いがドッシリとした机が置かれ、その前の皮ばりの椅子に、圭子は腰かけていた。
壁には、外国の名優の写真らしいのが、銘々白い框《かまち》の縁に入れて三つかかっていた。
小さい水彩画と、ピカソの絵葉書、その脇には圭子自身の製作らしい麻布《あさぬの》に葡萄《ぶどう》の房のアプリケが、うすよごれた壁をすっかりかくしていた。
「話って?」新子は、姉の机の脇に立った。
「佐山さんが、貴女《あなた》が私達|姉妹《きょうだい》の中では、一番|曲者《くせもの》だっていっていたわよ。」と、圭子が、微笑しながらいった。
「それは、どういう意味?」
「貴女には、聖母のような清らかさと、娼婦のようなエロがあるんだって! 恋愛でもしたら、男殺しという役だって!」
「へえ。そんなこといった? だって、佐山さん、一度しか私と会いもしないくせに、分るもんですか。」
圭子は、姉妹の中で一番美しいかもしれなかった。とにかく、完璧な美人タイプに列し得られる。白粉《おしろい》気がなく、癖のない潤沢な黒髪を、無造作に束ねているので、たいへん清楚《せいそ》な感じがした。
「話って、それぎり?」新子は、もう一度|訊《き》いた。
姉は、ちょっと首を振って、
「ううん、これよ。」と、丸善のビルを新子に渡した。
洋書が五冊、新子は内訳は見なかったが、合計は二十三円五十銭だった。
「お母さまにいうと、また長講一席よ。貴女から、話してほしいの。」
新子は、しばらくの間だまってしまった。
姉妹の父は、長い間、台湾のさる製糖会社の技師をして、相当な高給を食《は》んでいた。退職したときにも、数万円の手当を貰った。しかし、生活ぶりが、華手《はで》だったので、一昨年|脳溢血《のういっけつ》で死んだときは、金はいくらも残っていなかった。そして華手な生活ぶりと、金の事を気にしないルーズな性格とだけが遺族の上に遺されていた。今年の初め、あわてて家賃の安い現在の家に引越して来たのであるが、働く者のない家庭は窮乏の淵へ一歩一歩ズリ落ちて行く外はなかった。
その上、姉妹の母が、生活に対しては、ひどく没常識であった。
三
父が死んだ後も、母は漫然として、何の新しい収入の当《あて》もないのに、家賃の高い麹町《こうじまち》の家に暮していた。姉の圭子は相不変《あいかわらず》女子大に通い、新子は津田英学塾に通っていた。
今年の初め、母が少し愚痴っぽくなったので、新子がおかしく思って、母に迫って家の経済状態を根掘り葉掘り問い質《ただ》してみると、父が勤めていた会社の株が五十ばかりのほかには、銀行預金が二千円とわずかしか残っていなかった。父の死後、そんなわずかな預金の中から、月々三百円に近い生活費を出していた母の出鱈目《でたらめ》さに驚いたが、今更どうすることも出来ず新子はあわてて、自分で学校を廃《や》めてしまい、母を勧めて、家賃の安いここ、四谷谷町の家へ越して来たのであるが、しかしそれは半年で駄目になる生命を、やっと一年に延ばしたというだけのことで、前途に横たわる生活の不安は、どう払いのけることも出来なかった。
しかし、それは新子だけの気持で、姉の圭子も妹の美和子も、家の生活の実際を知りもしなければ知ろうともせず、太平無事の日々を過していた。殊に、圭子は文学好きで、去年あたりから新劇研究会のメンバーになると、家の暮し向きなどはおかまいなしで、いつも損をする公演の手伝いなどに、うき身をやつしているのだった。
だから、新子が今年の初めから母を助けて家計を切り盛りし、月々|幾何《いくら》幾何と、定めておいても圭子も美和子も、ムダな浪費をする習慣がなかなか止まず、本好きの姉は、この頃|為替《かわせ》相場の関係でめっきり高くなった洋書を、買ったりするのである。
「二十三円五十銭、こまるわね。お母さまが、この頃愚痴っぽくなったのも、無理はないのよ。お姉さま、家に今お金いくらあると思っていらっしゃるの?」新子は、ビルを手にしながら、金銭というものの脅威が、しみじみ身に迫るのを覚えながらいった。
「おやおや、貴女まで愚痴っぽくなったのね。だって、これ二月《ふたつき》分よ、私もっと買いたい本があるのを辛抱しているんですもの。その代り、私着物なんか一枚だって買わないじゃないの?」もう、姉は少し中腹《ちゅうっぱら》らしかった。
初めての愛児として、両親の全盛時代に、甘やかされて育った姉は、生活ということに対しては、全然考えようともしないらしく、てんで話にならなかった。
こんな機会に、もっと真面目に、根本的に姉に話してみようかと新子が考え出したとき、階下から母親が高い声で、
「新子さん。ちょっと階下《した》へ来て下さいな。」と叫んだ。
「はい。」と、新子は返事をした。
一家中、何かにつけて、新子だった。いかなる場合でも、一番深く考えている者が苦労するように、母も姉も妹も、みんな新子に背負《おぶ》いかかっているのだった。
四
新子は、姉に自分達の生活について、何かいってやりたい気持を抑えて、階下へ降りてみると、上で気がつかない内にそこの玄関へ、父の存生《ぞんしょう》中から、出入りしている重松という日本橋の時計屋が来ていた。四、五年前までは、よく恰好な出物《でもの》があるといって、売り付けに来たのであるが、去年あたりからは、母が生活費のたしに、時々売り払う品物を買いに来るようになっていた。
茶道具のわきに、新子の見馴れない金《きん》の大きい指輪が、二つ置いてあった。
母は子供のように秘密主義で、子供にまでかくして、色んなものを持っていたのだが、この指輪も、母がとって置きの秘蔵品だったのかと思うと、新子は悲しかった。だが、母はニコニコしながら、
「重松さんにね、こんな指輪、どうせ安いんだろうと思って見せたら、金は今とても、値がいいんですってね。ねえ、新子売ってもいいだろうね。あなたに相談しようと思って、呼んだのよ、どう?」母は、二、三年来の金の値上りにさえ、今更おどろいているらしかった。
「そうね。そりゃ売ってもいいけれど、重松さん、今一|匁《もんめ》いくらで買って行くの。」
「十円五十銭です。」頭をテカテカになでつけた重松は、どっかにずるそうなところのある四十近い小男だった。
「もっと、するのじゃないの。」
「十一円五十銭まで行きましたが、このところ一円ばかり下っていますので……」
「この指輪、何匁あるの。」新子は、一つずつ持ち上げてみながら訊いた。
「大きい方が、五匁二分。小さい方が、四匁四分、両方で九匁六分でございます。」
「重松さんのはかり[#「はかり」に傍点]、インチキじゃないの。」と、新子がからかうと、
「どう致しまして、それにお母さまが、ちゃんと古い書付を持っていらっしゃいます。ごまかしがきかないんですよ。」
「へえ。どんな書付?」
「これよ。」母は、うれしそうに、膝の上に置いてあった渋色になった、みの紙の書付をひらひら出して見せた。
[#ここから1字下げ]
一、金二十三円九十二銭也
平打純金指輪。五匁二分(一匁四円六十銭也)
一、金二十円二十四銭也
平打純金指輪。四匁四分(一匁同上)
細工料一円二十銭
明治四十年九月吉日
[#ここで字下げ終わり]
と書いてあった。
考えると、これは両親のエンゲージ・リングなのである。
「売っちゃうの。」新子は、何か悲しいような、あさましいような気がして、しずかに母の顔を見返した。
五
この四、五年来、金輸出禁止とか解禁とか、再禁止とか、あんなに騒ぎがあって、金の値上りについての新聞記事だっていく度も出ているのに、それをちっとも知らない母は、重松のいう相場に、何か大もうけでもしたように、うれしがっていた。
「ねえ。この書付だとこんなに安いのが、百何円にもなるのだねえ。やっぱり、昔のものは、物がいいんだね。」
ほかの物は、いざ知らず、金はいつにでも金であるところに値があることを知らないらしい母に、新子は、
「ええ。」と返事はしたものの、あ
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