子供らしい彼女の受口の舌の中には、少しは的はずれでも、とにかく相手のどこかを突き刺す毒の針が、無数に含まれている。
 新子は、眼を伏せたっきり、問答は全く、夫人と美和子に移って、彼女は圏外に出された形である。
 夫人は、今まで、わがまま一杯に育ち、人を権柄ずくにやっつけることには、巧みでも、一度相手から逆撃されてみるとたちまち勝手が違い、カッとのぼせ上って来、気の遠くなるほど、美和子が憎らしくなりながら、口の方はかえって辛辣さを無くしていた。
「私は、別に埃のないところを叩いてやしません。それが証拠に、新子さんは恐れ入ってるじゃありませんか。」
 美和子を避けて、弱い姉を衝こうとした。

        七

 美和子は、また奮然として、
「お姉さんだって恐れ入っているもんですか。お姉さんは、あんまり良心がありすぎるから、たった一月お世話になったことを考えて、遠慮しているだけよ。こんなに慎みぶかいお姉さまを危険視するなんて、大間違いだわ。お姉さんを、警戒する前に、奥さまは、手近な前川さんの心臓を、しっかりお握りになっているといいんだわ。」
 これは、美和子の揮《ふる》う論理の中でも、相当夫人にとっては、痛いものであるだけに、夫人はますます苛々《いらいら》して、表情らしい表情を無くして了《しま》い、
「下らない理窟なんか聞きたくないわ。ともかく今夜かぎり、貴女方姉妹は、この店に出入を止して頂きたいわ。ねえ、新子さん、それに異議はないでしょう、貴女は先刻承諾したはずですもの。」と、敢然として高圧的な態度に出た。
「どんな理由で、止さなければならないんですか。」と、美和子は落着き払って訊いた。
「どんな理由? 私が厭なんです。前川がこんな酒場なぞを出すことに、反対するのです。この店が無くなる以上、貴女がここに止《とど》まるわけはないじゃありませんか。」夫人は、ようよう冷然たる態度を取り戻して来た。
「あら、奥さまは、そんな権利をお持ちにならないはずだわ。」
「おや、どうして……良人のものは、私のものですわ。」
「だって、このお店、前川さんのものじゃないわ。」
「じゃ誰のものです。」夫人は嘲りながら云った。
「みんな新子姉さんのものよ。」
「美和チャン!」新子は、思わず美和子を押えようとした。
「お姉さんなぞ、だまっていらっしゃい!」と、云ってまた夫人に向い、「ここのものは、みんなお姉さんのものだわ。」
 夫人は口惜《くちお》しそうに、ジッと美和子を睨《にら》みつめながら、
「だって、みんな前川が買ったものじゃありませんか。」
「お金は、誰から出ているか、私知らないわ。しかし、今では、みんなお姉さんのものだわ。だって、お店の名義は、お姉さんの名前ですもの、そりゃ、みんな前川さんから貰ったものかもしれないわ。でも、貰い物は貰った人のものよ。」
「まあ! 図々しい!」
「図々しいよりも、こんなこと云い合うの、下品だわ。あさましいわ。だから、お姉さんは、だまっていらっしゃるのよ。奥さまが、愚図愚図と云えばだまって出て行くつもりよ。だからお姉さんの方が、奥さまや、私よりも人間が上よ、一言も云わないんだもの。」
「ヒドイ!」
 夫人は怒りにかすれた喉声《のどごえ》でそう云うと、いきなり立ち上った。立ち上って、扉《ドア》を押すと、よこっ飛びに階段へ出た。
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  殉愛の道




        一

「美和チャン、貴女《あなた》……」
「シッ、静かに。」と、姉の言葉を押えて、階段口から階下の情勢を窺《うかが》ったが、動き出した自動車のエンジンの音を聞くと、
「帰っちゃった!」と、舌を出した。
「だって、貴女、ほんとにひどいこと云うんだもの。」
「ひどいって、どちらが……。あれは、一体何をして生きている人種《ひと》ですか。苦労知らずの奥様で、お金があって、暇があって、旦那様をお尻に敷いて威張っている上に、ちょっと貧しい同性は、目の敵《かたき》にして、こっちの困ることなんか、おかまいなしに、すぐ出て行けだなんて……人を馬鹿にしているじゃないの、もっと苛《いじ》めてやればよかった。あたし、あんなのと喧嘩するの大好きだわ。」
 美和子が、おどけた口調でいうので、場合を忘れて、新子もちょっとほがらかになりながら、
「だって、貴女だって、あの奥様の立場になれば、きっとああだわ。」
「モチ、あたしだったら、もっと凄くなっちゃう。」と、艶《あで》やかな笑顔をしてみせた。
 妹の思いがけない奮闘で、急場の難儀を逃れたことを、嬉しく思うものの、しかし新子の心境はみだれていた。
 前川が、夫人に対する態度をよく知っており、それを改めることが、前川にとって不可能であると思われるだけに、夫人にすべてが知られてしまった現在では、前川と自分との交際も、これが最後であると考えねばならなかった。
 もし、またそれを続けるとしたならば、今以上に、太陽の当らぬ日蔭の地を選ばねばならないし、またどこに隠れていようとも、ゲー・ペー・ウーのように鋭い夫人の眼を怖れて、常に恟々《きょうきょう》としていることは、新子の堪え得るところではなかった。
 今こそ、前川の周囲から、身を引いて、明るいところへ、新しい生活を築き直すべき機会であると思った。
 新子が、ふかくうなだれて物を思っていると、女給《ウェイトレス》のよし子が、不安な表情で上って来て、小声で、
「先刻、前川さんがお見えになりましたので、美和子さんのおっしゃったとおり、資生堂で待っていて頂くように、申上げておきました。」と、いった。
「あら、そう、どのくらい前。」
「たった今でございます。」
「お姉さま行く?」と、美和子は姉を見た。一歩《ひとあし》、店を出ると、すぐ前川夫人につかまりそうな気がして、新子は会いに行く、勇気が出なかった。
「じゃ、私、行って来るわ。とにかく、事件を報告してくるわ。あの人にも少しいってやるの。」と、新子が、止める隙もなく、美和子は一散に店を飛び出して行った。

        二

(今取り込みがありますのよ。資生堂で、しばらくお待ちになっていて下さいませんか、とおっしゃっていましたわ)と、よし子にいわれて、しかも奥を気にするその態度に、そわそわした不安が感ぜられたので前川は、(あ。よし!)と、軽くうなずいて引き返すと、指定されたとおり、一町とはない資生堂まで歩いて、空いたボックスを探して、腰をおろすとアイスクリームを註文した。
 取り込みって、何だろう。姉妹《きょうだい》喧嘩でも、始めたのであろうか。それとも、姉から妹に移ったという若い音楽家でも、飛び込んで来て、事件《トラブル》でも起したのであろうか、などと今までに例のないことだけに、狐につままれたような感じのなかにも、新子の身を案ずる不安が漂っていた。
 だが、十五分とも、待たないうちに、待っていた姉の代りに、美和子が入口に現われ、わざと入口から見えるような位置に腰かけている前川を見つけると、思いの外に元気のいい笑顔で、近づいて来た。
「やア。」と、笑顔で迎えれば、
「のん気な、顔をしてんのね。」と、きめつけられて、
「おや、あべこべじゃないですか。そちらこそ、取り込みがあったというのに、のん気な顔をしているじゃありませんか。」
「あら、取り込みなんて、よし子がいったの? 取り込みなんかじゃないわよ。ただ、前川さんが、会いたくない人が来ていたのよ。」
「じゃ、昔お姉さんの恋人であった人で、今度貴女と結婚するという人?」
 美和子は、ちょっと憤《いきどお》った顔をして、
「自分のお蔵に、火がついたのも知らずに、何を云ってんの。私達の恋人じゃないわよ。貴君《あなた》の恋人よ!」
「嘘、おっしゃい!」
「嘘なもんですか。前川夫人が乗り込んで来たのよ。」
「僕の女房? ウソでしょう。」
「そらそら、すぐ色を失うくせに、……嘘なもんですか。」
「綾子が……どうして……」前川は、きれぎれに呟いた。
「どうしてだか、お家へ帰って奥さんに訊くといいわ。」
「綾子が、あの家を知ってるわけはないんですよ。冗談にも、そんなことを云うものじゃありませんよ。」
「そんなに、興奮しないで、落着いて、落着いて! とにかく、私がどうにか帰したんだから。」
「本当ですか。」
「本当よ。」癪《しゃく》にさわるほど、美和子は落着き払っていた。

        三

「グレープ・ジュース、氷沢山入れてね。」と、ボーイに命じて、後は前川の張りついたような顔に、愛らしく笑いかけて、
「貴君の奥さんと、やり合ったんで、喉が乾いちゃったの。……でも、不愉快だわ。」
「貴女が、やり合ったんですか。」前川は、気の毒なほど、蒼くなっていた。
「そうだわ。だって、新子姉さんは、何にも云わないんだもの。だから、マダム、俄然《がぜん》威張っちゃって、お姉さんを泣かしてしまったんだから……」
「お店で、ですか。」
「お店で、始まりそうだったから、二階へ上げちゃったの……」
「二階でね。」前川は、秘密の核心を衝かれたように、憂鬱な顔になって、
「しかし、こんなに早くどうしてあの店が分ったんでしょう。」
「圭子姉さん、ご存じ?」
「知っています。」
「あれが、マダムに籠絡《ろうらく》されているんだから、世話はないの。私が圭子姉さんに頼まれて、だらしなく案内してしまったの。」
「圭子姉さんか、ウッカリしていた……」
 物事の径路がハッキリして来ると、今までは半信半疑であった事件が、マザマザと考えられて来、妻の露骨な仕打ちが、わが事のように羞《はじ》らわれて来た。
「奥さんも、随分思い切ったことなさるわねえ。たとい、お姉さんを疑っていらしっても、いきなりここへ来て、直接行動を取るなんて、ひどいわねえ。」
「ひどい――とんでもないことをする。」前川は、憮然としている。
「前川さんも、いけないのよ。奥さん一人を、操縦できないくせに、私のお姉さんを、どうかしようって、ムリよ。」前川は、この小娘と思いながらも、返すべき言葉がなかった。
「それに、お姉さんを、心では二《に》っちも三《さ》っちもないほど、好きんなっていながら、いつまでも穏便主義でやろうなんて、ムリだわ。ムリというよりも、意気地がないわ。四十男の感傷主義なんていやだわ。女学生の作文のような恋愛なんか、いやだわ。そんな中途半端だから、お姉さんも苦しみ、貴君も苦しむのよ。やるのなら、ハッキリした方がいいわ。」
「ははははは。」
 前川も、つい苦笑してしまった。しかし笑いながらも(負うた子に、浅瀬を教えられ)と、いういろはだとえ[#「いろはだとえ」に傍点]を思い出していた。
「じゃ、あたし行ってお姉さんを代りによこすわ。よく慰めてあげて頂戴ね。お姉さん、随分考え込んでいるわよ。」と、いうとスラリと立ち上って、早くも入口の方へ、二、三間歩み去っていた。

        四

 風のように、美和子が去ってしまうと、前川は、しばらく味気《あじき》なさそうに、煙草を吸いつづけた。
 世の常の良人《おっと》ならば、かかる場合には、たまりかねて、飛び出して来た自分の妻の心根にもかなり同情するのであろうが、同棲して以来、十幾年、常に夫人の高慢な意地の悪さに、悩まされる前川は、夫人の人格的な欠点を、洗いざらい見せられたように、眼の前が暗くなり、妻に対して、落莫たる味気なさを感ずるばかりであった。
 五分、十分、新子の来るのが、なぜか手間どった。新子が、どんなに、厭がっているだろうということが、分っているだけに、気が気でなかった。
 重ねて、何を註文する気にもなれず、卓の上の一輪ざしの、名も知らぬ西洋草花をじっと見ていた。
「お待たせ致しました。」
 ハッとして、顔を上げると、急いで化粧したらしく、乱れのないいつもの新子が、それでもやさしく微笑しながら立っていた。
「すみませんでした。」
 前川は、まじまじしながら、頭を下げてあやまった。
 新子は、唇のあたりに、ちょっと悲しい影を漂わせて、しかし眼は前川の気を、引き立てるように笑いながら、微《かす》かに
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