び前川の周囲に、立ち寄らせないことにしようと、頭の中でいろいろ効果のある云い廻しを考えた後、
「こんな生活なんて、大抵|自尊心《プライド》のない、無教育の女がやることですけれど、貴女は不思議ですわね。専門教育をお受けになったくせに、よくこんな寄生虫的な生活がお出来になるのですね。」と、(つまり、貴女は教育があるのに、人の妾《めかけ》になるのか)と、云わんばかりの言葉で嘲った。
新子は、たとい貞操を売っていないにしろ、形式だけはそう思われても仕方のない生活をしているだけに、夫人の非難の少くとも半分は胸にヒシヒシと徹《こた》えるので、心はしめ[#「しめ」に傍点]木にかけられたように苦しく、なぜこんな生活に、足を踏み入れたのだろうかと、我が身があさましく思われて、危く涙が出かかった。
その上、新子がだまっていればいるほど、それはいよいよ夫人の気勢を、煽ることになるらしく夫人はいよいよ図に乗って、
「この店で働いているなんて云えば、とても体裁がいいけれど……私は、良人が、こんな不見識な商売をしていることだって、我慢できないんですよ。私の実家や、お友達にでも知れようものなら、良人はともかくも私までが、どんなに恥しい思いをすることでしょう。しかも、以前、私の家で家庭教師をした女を、その店のマダムに使っているなんて、分ろうものなら、それこそ、いい加減|醜聞《スキャンダル》じゃないでしょうかしら。それにしても、貴女に長く子供達を委せておかなかったことは、こうなってみると、ほんとうによかったと思いますわ。」
夫人は一層意地わるく、ジリジリと新子を責め始めて、
「あのまま貴女に長く居て頂こうものなら、それこそ私の神聖な家庭まで、汚されたかもしれませんわ。」
「まあ! 奥さま、それはどういうことなんですか。」と、新子も堪りかねて云った。
「どういうことだか、貴女の胸に手を当てて、訊いてごらんなさい!」
「だって、奥さま、私前川さんと何も邪《やま》しい!」
新子の口惜し涙は、とうとう頬に糸を引くまでになって、身をふるわせながら、必死に叫んだ。
「じゃ、お訊きします。貴女は、この部屋で、前川とお会いになったでしょう。それとも、お会いになりません? この部屋、このベッドなんか置いてある部屋で!」
夫人の額にも、激しい嫉妬の影がひらめいた。
四
西洋では、男女二人ぎりで会う時は、部屋の扉《ドア》を開けておくと云う、日本は、それほどでないにしても、ベッドの在る部屋で会っていれば、どんな疑いをかけられても仕方のない道理なので、急所を衝いて来る夫人の言葉に、新子はまた一太刀斬りつけられた思いで、
「でも何にも……」といったまま、後の句が継げないでいると、夫人は緩急自在、やや鋭鋒を収めた形で、
「まあ、いいわ。今までのことは、どうだっていいわ。よしんば、貴女と主人との間に、何かあったにしろ、どうせ主人の気紛れか過失だったと思いますわ。主人が、貴女のような人を本気に愛しているなんて、考えられないんですもの。だから、今までのことは深く咎《とが》めないわ。ただ、これから、先のこと私の心配しているような醜聞《スキャンダル》が、世間に広がらないように貴女にも考えて頂きたいのよ。そのために、私恥を忍んでここへ来たんですから、貴女だって、いずれはお嫁にいらっしゃる身体でしょう、今下らない噂なんか立てられたら、一生の恥じゃありません?」
そう云われれば、そのとおりには違いない。しかし、新子は素直に、肯《き》く気にはならなかった。
「だから、私、貴女が主人と、何でもないとおっしゃるのなら、それを信じたいわ。貴女も、信じてもらいたいでしょう。でも、貴女が潔白を証拠立てるのには、この店から、今晩にでも出て行って頂くのが一番よくないかしら。貴女が一介の雇人だとおっしゃるのなら雇人だということを、私の前で見せて頂きたいの。ねえ、南條さん! 私の申し上げることが、無理かしら。」
まず名分論で、新子をさんざん痛めつけた上、今度は実際論で、新子を窮境に追い込もうという作戦であった。
新子としても、かほどまでに悪辣な夫人に対しては、教養も外聞もかなぐり捨てて、滅茶苦茶な論戦を開くか、でなかったら、夫人の面前で前川との関係を、きれいに清算して(お騒がせしてすみません)とアッサリ引き下るか、二つに一つを出《い》でないのであり、しかも今更、夫人と、いぎたなく口争いする勇気もない以上、今はサラサラと引き下る外ないのであるが、しかし、ただこのままに出て行くのは、何と云っても口惜しく、敵《かな》わぬまでも、何かしら云ってみたく、
「でも、私前川さんから、このお店を、お預りしているんですから、前川さんから、お話がない以上は……」と、云いかけると、夫人は軽く引き取って、
「それはいいじゃありませんか。この店が前川のものであることを、貴女が認めていらっしゃる以上、前川の妻の私が、出て下さいと云う以上、お出になってもいいじゃありませんか。バーテンダーを呼んで下さいませんか。私バーテンダーに話しますから。」
新子にとって、はや絶対の場合となった時、何と思ったか、美和子が、気楽そうな笑顔で、いきなり扉《ドア》を開けて、部屋の中をのぞき込んだ。
五
美和子は、姉の泣き顔を一目見ると、急に前川夫人に対して、猛然たる敵意を感じたらしく、その可愛い眼に、殺気を漂わせ、部屋の内にはいって、姉の傍に歩み寄りながら、
「お姉さま、どうしたの?」と、いって訊いた。
「………」
新子は、さすがに妹の肉親の情の頼もしく、それだけまた悲しくなって、口がきけずにいると、美和子はいきなり、前川夫人に対して、
「奥さま、どうしたと、おっしゃるんですの。私に、案内させておきながら、お姉さまを苛《いじ》めるなんて、厭ですわ。」と、喰ってかかった。
夫人は、この小《ち》イちゃい娘をハナから、無視していることとて、
「貴女は、お若いんだから、下へ降りていて下さらない?」と、アッサリ片づけようとすると、
「いいえ。いやですわ。お姉さまを苛められて、私だまっては、いられないわ。」
小さい身体が、まるで反抗の塊のように、飛びかかって来そうである。
「まあ! 私いじめてなんかいませんよ。」
「いいえ。いじめていらっしゃるんですわ。きっと、お姉さまに、いろいろな疑いをかけて!」
夫人は、少し本気になり、
「だって、そりゃ疑わしいことを、いろいろするんですもの。」と、いった。
「疑わしいことって、何ですの。」
「貴女のような、小イちゃい人には、話せないことだわ。」
「それなら、分っていますわ。お姉さまと、前川さんとの間を、疑っていらっしゃるんでしょう。」
「おませ[#「おませ」に傍点]ね、貴女は……」
夫人は、眉をひそめながら、いまいましそうに、
「それなら、貴女にもいってあげるわ。どうせ貴女も圭子さんも、新子さんの縁で、前川の世話になっているんでしょう。そういうことを、貴女は自分で可笑《おか》しいと思わないんですか。前川と新子さんとが、普通の関係で、貴女方|妹姉《きょうだい》までの面倒が見られますか。」と、夫人は手きびしくやっつけたつもりでいると、美和子はケロリとして、
「あら、それは、奥様のひどい考え違いですわ。お姉さまなんか品行方正よ、ちゃんとしているわ。」
「品行方正で、こんなに前川の世話になっているんですか、前川と何でもなくて、こんなにまで前川の世話になれますか。」
「あら、お姉さんは、前川さんの何でもないわ、ただ、前川さんがお姉さんを、トテも好きなだけだわ。」
それは、まさに夫人の自尊心を、真向に割りつけた返事である。
たとい、良人と新子との間に、関係があったにしたところで、それを良人の気まぐれ、乃至《ないし》は過失として片づけたい夫人には、良人が新子を愛していると云われたことは、堪えられないことだったので、思わずカッとなって、
「汚わしいことですわ、良人に限って、他の女性を愛しているなんてこと、絶対に信じられませんわ。」と、大見得を切ったが、美和子は、それを事ともせず、
「だから、奥さまは何にもご存じないんだわ。ご存じなければ、ご存じないで、その方が幸福なんだわ。知らなければ、知らないで済んでしまうんですもの。わざわざこんな所を探して、いらっしゃることはないわ。」
あまりの暴言に、夫人は正面からピシャリと叩かれた思いで、しばし呆気に取られて、美和子の顔を、まんじりともせず眺めていたが、その洒々《しゃしゃ》とした容子に、また腹が立って来て、
「まあ、なんて恥知らずの人が揃っているんでしょう。私が、ここへ来て何が悪いんです。私の家庭を破壊しようとする者があれば、その人を面詰するのは、私の権利ですもの。」
今は、皮肉な冷静な調子はなく呼吸もややせわしく取り乱して来た。
「だって、そりゃお姉さんを責めるよりか、前川さんをお責めになる方が、先だわ。」と、美和子は、さり気なく首を振った。
「だって、新子さんは、一度私に使われた人じゃありませんか、その人が、私の家にいる間に、主人と怪しい関係をむすんで、私の家を出ると、コソコソと店を出させたことを、私がだまって放っておけますか、貴方のような子供には、夫婦間の問題なんて、分らないことですわ。下へ降りていて、頂戴!」
夫人は、憤《いきどお》りに煽られて、権柄ずくに、そう云った。
「いやですわ。私が、案内して来た人が、お姉さんを侮辱するのを、だまって見ていられないわ。」美和子は、決然として屈しない。
「私だって、故ない侮辱は致しませんよ。」と、夫人も今は、この小娘侮りがたしと見て、必死だった。
新子は、もうどうにも出来ない羽目に、追い込まれたので、身を棄てて、夫人の罵倒《ばとう》に甘んじようとした矢先、思いがけない美和子の颯爽《さっそう》たる助太刀を、頼もしくは思いながら、これ以上事を荒立てると、どんなことになるかもしれないので、
「美和ちゃん!」と、低くたしなめた。すると、美和子は、紅潮した頬を向け、
「お姉さんが、煮え切らないからいけないのよ。だから、愚図愚図いわれるのよ。」と、姉触るれば姉を斬る勢い。
六
(愚図愚図いわれるのよ)という美和子の言葉に、夫人はギョッとして、
「愚図愚図いうとは何ですか。生意気だわ貴女は。何だって、私をそんなに侮辱するのですか。」と、今度は自分の方が、被害者でもあるかのような夫人の口調である。
美和子は、相変らず、物に動じない円《つぶら》な瞳をジッと、見はって、
「だって、そうなんですもの。前川さんは、穏便主義でお姉さんは、志操堅固なんですもの。愚図愚図いわれることなんかちっともないわ。お姉さんは、処女ですわ。わたし、処女であることを信じているわ。奥さんに、苛められることなんかちっともないと思うわ。」姉に対する美和子の信念は、熱を持っていて、さすがに有力な反撃であった。だが、夫人も負けてはいず、
「へえ――。不思議なことを聞くものね。それなら、なおのこと、こんなベッドのある部屋で、前川と会うことなんか、慎むべきですわ。」
「そんなことは、お姉さんに、おっしゃる前に、前川さんに、おっしゃるべきだわ。」
「貴女の指図は受けなくっても、むろん前川を責めますよ。しかしそうするためにも、このいかがわしい場所を、確かめておく必要があるじゃありませんか。」
さすがの夫人も、才気|煥発《かんぱつ》、恐ろしい者知らずの美和子には、ややてこずっている気味である。
「だって、確かめようがありますわ。処女であるお姉様に対して、誰と怪しいとか怪しくないとかそんな確かめようなんて、ないと思うわ。そんなことを、おっしゃるのは、かえって貴方《あなた》の人格を傷つけることになるんだわ。」
と美和子は、もう姉のために弁ずるよりも、いかにもけんだか[#「けんだか」に傍点]な増上慢を、歴々《ありあり》と顔に出している夫人に、突っかかって行く興奮に自ら酔うているように、止めどもなく、喰ってかかって行く。
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