和子は改めて挨拶したが、しかし、美和子は、その老成した頭で、新子と前川とのただならぬ関係をほぼ察していたので、前川夫人を新子の酒場《バー》へ、案内することが、どういう役廻りであるか、すぐ思い当ったので、
「でも、新子姉さん、驚かないかしら。」と、真面目な顔で云った。
だが、若々しく愛らしく見える美和子のことなぞ、無視したように、夫人は圭子に、
「圭子さん、いろいろありがとうお忙しいところを。じゃ、しっかり、おやり遊ばせ。明日改めて、拝見に参りますわ。」と、云うと立ち上った。
「厭だ! ずるいや。」と、夫人が二、三間歩き出したとき、美和子は、姉に低くつぶやいたが、後から姉に押されて仕方なく一しょに戸外へ出た。
四
美和子は、姉の圭子が、このいやな案内役を体裁よく、自分に押しつけたのだと思うと腹が立って仕方がなかった。
彼女は、わがままで随分新子に迷惑をかけていたが、しかし自分には、一文の得にもならないことで、新子を苛《いじ》めたくはなかったし、その上この夫人を一目見たときから、何となく虫が好かなかった。だから、夫人と素晴らしい高級車に、一しょに並んで乗ってからも、彼女はつんとすましていた。
全然、美和子を子供だと見くびっているらしい夫人は、美和子の機嫌の悪いのを、そういう性格だとでも思ったらしく、いろいろ露骨に、南條姉妹の戸籍調べのような質問ばかりしていた。
しかし、そうなるとかの女は、さざえが戸を閉めたように、無口になっていた。
ホテルから、新橋よりのバー・スワンへは、物の三分ともかからなかった。
自動車が止まると、美和子は常よりも、もっと身軽に飛び降りて、ゆっくり落着きを見せている夫人に、
「ちょっと。お待ち遊ばして!」と、さりげなく云うと、自分だけ、姉の店へ飛び込んだ。
扉口のすぐ傍のボックスにいた新子は、勢いよくはいって来た美和子を見て、
「何というはいり方! もう、来ないのかと思っていた!」と、皮肉を云った。
「それどころじゃないわ。前川さんの奥さんが来たのよ。」
「えっ! 貴女が連れて来たの。」
「だって、圭子姉ちゃんが、無理に、私に案内させるんだもの。お姉さん、困るでしょう……」
新子の顔から、一時に血の気が引いて行くような感じで、口がきけないらしかった。
「お姉さま、私を恨んじゃいやよ。圭子姉ちゃんが悪いのよ。」
「………」
新子は、ふらふらしたらしく、後《うしろ》の衝立《ついたて》によろけかかりそうになった。
「いいじゃないの、お姉さま、何も恐がらなくってもいいじゃないの。何も、お姉さま、なにも悪いことしてないんでしょう。グズグズいえば、お姉さまだって、いうだけいえばいいじゃないの。」
「だって、なまやさしい方じゃ……」と、新子がいいかけたとき、待ちきれなくなったらしい夫人が、扉《ドア》から早くも半身をのぞかせて、
「私は、はいってもいいでしょうね。」と云った。
新子は、そのまま立ち竦《すく》んでしまったように、夫人から視線をそらすことも、首を下げることも出来ずに茫然としていた。
夫人は中へ足を踏み入れながらも笑顔を見せていたが、それは異常な緊張の微笑である。こうなると夫人の高雅な鼻の形などは、それだけの凄味を呼ぶのであった。
五
新子は、夫人の姿を見た瞬間からあさましさと、恐ろしさとで、床のないところに立っているような感じがして、身体がわなわなふるえた。
「随分立派ね。」夫人は、新子にも会釈もせず、部屋の中を一わたり見廻した後、なすところを知らず、棒立になっている新子を見ていった。
「ほほほほ。駭《おどろ》いたらしいわね。私が、何も知らずにいるなんて、思う方が間違いよ。」新子は、胸を衝かれたような思いであったが、その言葉をきっかけに、やっと視線をそらしながら、機械的に頭を下げた。
「私、貴女にいろいろ訊きたいことがあるの。答えて下さるでしょう。」
店にお客が二組くらいあるので、さすがに物柔らかい調子ではいったが、新子は何とも答えられず、ただおぞましい悲しさで胸が一杯だった。
「お客の居るところで、話しするのは、私はいいけれども、貴女はいやでしょう。静かに話の出来る所はないかしら……」と、夫人は早口に云った。すると、美和子が、
「お二階のお部屋にするといいわ。私、ご案内するわ。こちらへいらしって下さい。」と、云って先に立った。
新子は、薄情な美和子の言葉を遮る気力もなかった。
夫人が、何を訊くのだろう。その訊かれたことに、何と答え、何と抗すればいいのか。傷もつ脛の弱味で、どんなヒドい言葉でも、どんな無慈悲な侮辱でも、甘んじて受けなければならないのだろうか。顔を逆さまに、撫でられるような気がして、どうしていいか分らなかった。
厳然たる態度で、奥へはいる夫人を、美和子は階段のところまで、案内すると、飛ぶように姉のところへ引き返して来た。
「大方、こんなことだろうと思ったのよ。だから、私いやだったのに、圭子姉さんたら、否応《いやおう》なしに私に押しつけるんだもの。ご免なさいね。でも、二階へ上げて、話した方がいいわ。お店で話しているところへ、前川さんが、ひょっくり来ようものなら、たいへんなことになってしまうじゃないの。だから、私下にいて、前川さんがはいって来たら、善後策講ずるわ。」
子供だと思っていると、一旦緩急の場合には、相当頭の働く美和子の顔を、新子は少し呆れて見つめていると、
「そんなに悲しがることないわ。お姉さん、勇気を出しなさいよ。構わないじゃないの。よしんば、前川さんに、どんなことをしてもらっているにしろ、お姉さんがあの奥さんに、責任を持つことないじゃないの。ねえ、勇気を出して、会っていらっしゃい。下手《へた》に、謝ったりしたら、いやよ。堂々と、戦いなさいよ。」
やんちゃなだけに、こうなると頼もしい妹である。
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貞操問答
一
来てみるまでは、夫人もかほどまでに、新子に対する良人《おっと》の心づかいが、行き届いているとは思っていなかった。
階下を見て驚き、二階へ上ってみて、新子の私室《プライヴェト》らしい小部屋を見て、驚いた。
すべては、小ぢんまりとしていたが、季節の飯蛸《いいだこ》のように、充実している。階段を上るとき電話が引かれているのも見逃さなかった。
夫人は憤《いきどお》らしさと口惜《くや》しさと、良人に対する馬鹿馬鹿しいといった嘲《あざけ》りを覚えるだけで、良人の愛情にのみ生きている妻のように、嫉妬から来る苦痛は少しも感じず、こんなにまで、良人の世話を受けていては、どんなに面詰しようとも、相手はグウの音も出まいと思うと、彼女の心は躍り、眼は輝き、新子が上ってくる二、三分の間《ま》も、もどかしいほど、心がはやるのである。
新子は、このまま逃げ出してしまいたいような、激しい衝動《ショック》を感じて、藁《わら》をもつかみたい今の気持には、美和子に勇気づけられたことで、やっと心を落着け、メズーサの首のようにも恐ろしく思える夫人に直面すべく、階段に足をかけた。
階段を上って行く姉の後姿《うしろすがた》に、さも絶望したような憐れな容子《ようす》があるので、美和子はいたく心を動かされた。
ぼんやりしているよし子や妙子の側《そば》へ行くと、
「貴女《あなた》達、気にかけないで、お客さんの方よろしくね。レコードをかけて、大いに騒いでいてね。前川さんが来たら……」と、云いさして、小ざかしくも頭をかしげて物思いながら、
「あんまり、二階の話が長いようなら、私容子を見に行くかも知れないから、その後にもし前川さんが来たら、ちょっと取りこんでいるから、資生堂へ行っているように、話してくれない、ね……」
と、云うと自分も、奥へはいり階段の下から、二番目のところまで昇って上の容子いかにと聞耳を立てるのであった。
新子が、自分の部屋へはいると、夫人は新子のベッドの端に腰をかけながら、皮肉な微笑を浮べて、新子を迎えた。新子が、また落着きを失って、ションボリとその前に立つと、
「ほほほほ。南條さん、しばらく。私が、いきなり来たので、随分驚いていらっしゃるらしいわねえ。でも、私の方だって随分びっくりしていますのよ。私、偶然、貴女のお姉さまとお友達になって、貴女がバーなどに、勤めていらっしゃるって聞いたんで、びっくりしましたの。貴女のようなインテリ女性が、こんな商売をなさるの、勿体《もったい》ない気がしましたの。そして、酒場《バー》へは主人がお世話したという話でしたけれど、まさかと思っていました。でも、ここへ来て、私驚いてしまいましたわ。この家は、たしかに主人が出した店ですわね。私が見覚えのある装飾品だって、三、四点あるんですもの……」と、征服者のように笑いながら、「新子さん、貴女、お腹ン中で、私のウカツさを笑ってらしったでしょう。」と、云った。
二
こんなことで、取り乱しては、自分の品位に拘《かかわ》るとでも思っているのだろうか、態度だけは、あくまでも冷静に、言葉も針のように鋭く、
「まさか、貴女もこのお店と、主人とが何の関係もないなんて、おっしゃらないでしょうね。家具の好み、装飾の好み、これはたしかに前川ですよ。色の調子なんか、私の家の主人の部屋と、そっくりですもの。」
新子が、良心的である以上、今更そうした断定に抗することは、出来なかった。
夫人は、最初の前提をしっかり定めるべく、
「この店を前川が出したことを貴女否定なさらないでしょう?」
「………」
だまってはいたが、不覚にもかすかに、うなずいた。
「貴女だって、悪人じゃないんでしょうから、こんな見えすいたことまで、かくしはなさらないわけね。じゃ、お訊きするわ……」と、夫人はさも軽蔑したような調子に変り、「私と主人との間には、今までは何の秘密もなかったんですのに、私に全然|内証《ないしょ》で、主人が貴女の世話をしているなんて……。一体、貴女は主人の何なんですの!」と、冷静を装っている夫人の眼も、さすがに光った。新子は、懸命な努力で、
「前川さんと私、何でもございません。ただご親切にいって下さるもんですから、この店で勤めさせて頂いているだけですの……」と、いった。
「そう! じゃ、貴女は雇人ですの。でも、雇人の貴女が、、こんなハイカラなべッドや、立派な鏡台を持っているんですの……」と、夫人はまず、鋭い皮肉を浴せておいてから、「南條さん、貴女は、口では綺麗なことばかりおっしゃるけれど、貴女と私達一家とは軽井沢でご縁が切れているはずでしょう。それだのに、なぜ主人と交渉を……しかも並々ならぬ交渉をお持ちになっているんですか。しかも、妻たる私に、内証に。それが、私には不可解なのですよ。貴女が、最初から私と、何の面識もない、どっかの職業女性《プロフェッショナル》なら、こりゃ私《わたし》文句は云いませんわ。ところが貴女は、かりにも、半月なり一月なり同じ家にいて、私と朝夕顔を見合わせた関係でありながら、私に内証で、前川と特別の関係をお持ちになる。主人が貴女を再び呼んだのか貴女が主人を呼び出したのかどうか知りませんけれど、一切私に秘密に、こんないかがわしい店に、貴女がいて、毎晩主人と会っていらっしゃる。そういうことはかりそめにも、教育のある淑女のなさることでしょうか。貴女自身|可笑《おか》しいとお考えにならないのですか。そんなことをなさっては、貴女を立派な淑女として、私の家へ紹介した路子さんに、申し訳がないとは、思わないのですか……」
三
層々と畳みかけて来る夫人の、一言一言|剣《つるぎ》を並べたような鋭い侮辱に、新子は完膚なきまでに斬り苛まれながらも、返すべき言葉は見当らず、ただじっとこらえる全身の口惜《くや》しさに、指先が烈しく震えて来るのであった。
夫人は、新子が自分の言葉に、打ちひしがれて返事も出来ぬ容子に、有頂天になり、口で与え得るかぎり、あらゆる侮辱を与えて、二度と再
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