、この店の顧問は、一体誰ですか。」と、木賀は悪意は、なさそうであったが、少しニヤニヤ笑いながら、訊いた。
「さあ、誰でしょうか。」新子は、苦笑しながら、ごまかした。
「案外、前川さんあたりじゃないかな。あの先生、あれでなかなかの洋酒通だからなあ。どうです、当りませんか。」
「存じません。」新子は、打ち消すだけの勇気はなかった。
「僕、もう貴女は結婚してしまわれたのではないかと思った。軽井沢で、この一筋と思うような人でなければならんというような気焔《きえん》だったが、まだ見つからないんですか。この一筋が見つからんので、ちょっと道草ですか。」
「さあ……」
「案外、見つかっているのですか。」
「ご想像に委せますわ。」
「こりゃ、いかん、南條さんも、人が悪くなりましたな。じゃ、見つかっているものと考えていいですか。」
「おほほほ……」
「案外、前川さんあたりじゃありませんか。」
 新子は赤くなって、
「あら、違いますわ。そんな風に思って下さっては困りますわ。」
「じゃ、前川さんはこの店には来ないんですか。」と、木賀は笑いながらも、鋭かった。
「そりゃ、時々いらっしゃいます。でも、それとこれとは違うじゃございませんか。」
「もちろん違うし、たとい前川さんが、貴女の後援をしているにしても、僕は変な風には、考えませんよ。前川氏は、紳士だし、たいへんな女性尊重主義者《フェミニスト》だし……そりゃ清らかなものだと思っていますよ。しかし、それだけに、貴女が、いつかは前川氏をこの一筋と考え込んでしまいそうだな。そこに危険がある!」
 新子は、ひしと云い当てられながらも、躍起になって、
「まあ、そんなに想像を逞しくなさるもんじゃ、ございませんわ。まるで、私が前川さんのお世話にでもなっているように……」
「いや、そう思うのは、僕だけではありませんよ。」
 木賀の言葉は、なお朗かであったが、新子はズシンと、胸を衝《つ》かれた。やはり、木賀が前川夫人のスパイであるような気持がして来た。

        七

 新子は、急に真面目になった。
「もし、そんな誤解をしていらっしゃる方がございましたら、貴君がよろしく、弁解しておいて頂きたいわ。」
「そりゃ、頼まれなくってもやりますよ。しかし、前川さんがこの店へ時々来るとすると、そう誤解される危険は、充分あるですな……。それに、あの爆弾夫人は……」
「え!」新子には、何と云ったのか、ちょっと分らなかった。
「いや、あの前川夫人ですよ。あの人は、貴女も知っているとおり、嫉妬という点になると、まるで猟犬か何かのように敏感ですからね。怪しいと見ると、どんな手段でも取りますよ。あの人は、僕なんかも、貴女に対するスパイとして、利用しようとしているんですからな。ところが、僕はスパイを勤めるような顔をして、久しぶりに貴女に会いに来たんですよ。」
「じゃ奥さんは、私がここにいることご存じなんですか。」新子は蒼くなっていた。
「いや、ハッキリは知らないんです。しかし、貴女が銀座のある酒場《バー》にいることは知っていますよ。」新子は、それを聞くと、自分のやや安定していた生活が、グラつき揺がされたような気がした。
「誰が、そんなこと話したんでしょう。」新子は、何となく恨めしそうだった。
「誰ですかな。しかし、僕が来たことは安心して下さい。僕は、夫人のスパイを勤めるよりも、必要によっては、貴女のために、策動しますよ。」
「………」
 新子は、木賀の相変らずの朗かな調子に、随《つ》いて行くことが出来なかった。木賀も、やや、真面目になって、
「貴女のために、計るとすれば、前川さんと全然ご関係がないとすれば別ですが、もしどんな意味でも、ご関係があるとすれば、前川さんは、当分ここへいらっしゃらない方がよくありませんか。でないと、あの夫人は、あれでウルサイですからな。いざとなると恐いですよ。どんなことでもやりかねないんですから。」
 それは、木賀の云うとおりであった。このわずか一月ばかりの幸福な生活の地平線に、たちまち黒い密雲の立ち掩《おお》うて来るのを感じた。新子は、さしうつむいたままだまっていた。
「僕は、貴女のために、奥さんの動静を探ってあげますよ。必要があれば、時々ご報告します。このマッチに、電話番号が、ついていますね。」と、バー・スワンと銘のはいったマッチを、一箱ポケットの中に入れた。
 今更、木賀に対して、前川と何の関係もないと、抗弁するのも愚かしいことであったし、と云って木賀に、どうかよろしくと、依頼する気にもなれなかった。木賀は、新子の気持を充分察しているように、
「あまり、クヨクヨご心配にならなくってもいいじゃありませんか。少し注意をすれば、貴女がこの店にいることだって、容易に分りゃしないですよ。」と、木賀は、サラサラ云ってくれたが、新子の胸の重い澱みは、どうすることも出来なかった。
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  案内者




        一

 断髪が散らないように、手拭でキッと鉢巻をして、化粧をしている美和子の肌は、真珠色に輝いている。
「何だ! 朝湯に行って来たの。じゃ、美和ちゃん、一日だけの我慢で、今日はまた、新子ちゃんとこのお手伝いするつもり?」
「ううん。」
 圭子に訊ねられて、美和子は眼に奇妙な色を浮べて、生意気な笑い方をして、首を振った。
「じゃ、どっか外《よそ》へ出かけるの?」
「ううん。」
「じゃ、どうしてそんなに、お洒落《しゃれ》するの。」
「別に、当《あて》はないの。でも、街を歩いていて、さる人に会った時、相手を少し口惜《くや》しがらせるお化粧するの。振られちゃった女の化粧ってのよ。これは……」
「何を云ってるのよ。」
 圭子には、美和子の心理なぞ、少しも分らない。美和子は、真面目な表情で、鏡の中の己《おのれ》に、ジッと見入りながら、反り返っているまつ[#「まつ」に傍点]毛の一本一本に、メーヴェリンを塗っている。刷毛《はけ》でつけた頬紅を、脱脂綿でまたほのぼのとふきとり、上唇の濃いルージュを、下唇に移して、油性のクリームで光らせる。圭子も惹《ひ》きつけられて、鏡の中の美和子の顔を、まんじりともせず、眺めている。
 やがて、アルコールで温めたこて[#「こて」に傍点]を取り上げて、額ぎわの髪の毛は、すだれのように、カールして、
「どう……クローデット・コルベールのクレオパトラみたいじゃない? 綺麗! 綺麗!」と、独りで悦に入り始めた。
「どうかと思うわ。せいぜい少女歌劇のクレオパトラくらいだわ。あんたのようなのを、ベビー・エロというのかしら。」
「ううん。この頃は、チビ・エロというんだって? でも綺麗なことは、お姉さんだって認めるでしょう。」
「あんたが、うぬぼれなければねえ。でも、あんたのようなお化粧は、お化粧の範囲《カテゴリイ》を通り越しているわ。化粧《ばけしょう》だわ。」
「だって、ネオン・サインの街を歩くのには、私のようなお化粧でなければ、刺戟がないって! この間、雑誌に出ていたわ。」
「ねえ、どこも、出かける当《あて》がないんなら、私の方へお手伝いに来ない? でも、私は新子ちゃんじゃないんだから、お給金なんか上げないわよ。」
「ええ、行って上げようか。私今日から毎日一度ずつ、銀座を歩くことにしたの。だから、ちょうどいいわ。私、銀座で会ったら、示威《デモ》をしてやりたい人があるの。」
「下らない。来てくれるのなら、一しょに出かけるから、サッサと洋服着てよ。」
「ハイ、ハイ。」と、美和子は立ち上りながら、
「私も、お姉さんのように、舞台へ出ようかな。」と云うと、圭子は、
「駄目! 貴女《あなた》のような精神的な陰翳のない人は駄目!」
「へえ。」と、唇をそらした美和子の表情の方が、姉よりは、ずーっと陰翳があった。

        二

 天性明るく淡泊な美和子ではあったが、しかし、意地っぱり屋であった。
 美沢の心の中に、新子に対する清算しきれないものがあるのを知ると、何か苛々《いらいら》して来て、ひたむきに美沢を追う気になれず、その不満をまぎらすために、姉の酒場《バー》で働いていると、そこへ美沢が現れて、
(君とも会わないよ!)と、何か新子を清算するお添物のように、あっさり片づけられてしまうと、美和子は口惜《くや》しくて仕方がなかった。
 何か、あっと云うようなことをやり出して、美沢や姉に思い知らしてやりたい気がしていた。
 だから、圭子に精神的陰翳がないから駄目と、あっさり云われても、姉の世話係として、劇団へ出入《でいり》するうちに、自分も舞台へ出る機会を掴むつもりでいた。
 圭子達の今度の公演の場所は、帝国ホテルの演芸場であった。だが稽古場としては、銀座裏の桜亭という貸席を借りていた。
 美和子は、その朗かな性質で、たちまち劇団の人達と、お友達になってしまい、姉の手伝いばかりでなく、誰の用事でもしてやるので(美和ちゃん美和ちゃん)と皆から重宝がられていた。
 今度の出し物は、日本の現代作家の創作戯曲であった。
 第一夜は、満員に近い盛況であった。
 第二日目の夜、楽屋入をして間もなく、圭子は面会のお客があって楽屋から出て行ったまま、しばらく帰って来なかった。
 二十分も経った頃、座員の一人が美和子のところへ来て、
「お姉さんから、ホテルのグリルにいるから、君にもすぐ来い! という言伝《ことづて》だぜ。」と、云った。
「ご飯喰べているのかしら。」と、美和子が訊き返すと、
「そうだろう。君にも、ご馳走してくれるんだぜ。」
「素敵! 素敵!」美和子は、雀躍《こおど》りして演芸場からは近い、ホテルのグリルへ駈けつけりた。
 やっと六時を過ぎたばかりなので、広いグリルには、お客の影が少く、姉と見知らない一人の婦人とが、入口から左の少し小高くなっている床《フロア》の卓子《テーブル》に着いているのが、すぐ眼にはいった。
 美和子が、わざと靴音高く近づいて行くと、姉がすぐふり返って、
「美和ちゃん、来たの。ここへおかけなさい。」と、自分の右側の椅子を、卓子《テーブル》から引きはなした。
 姉と話していた婦人は、そのときチラと美和子の方を、微笑で見上げたが、美しい顔に似合わず、何か人を威圧するような気位のある人だった。
 相手は、頭を下げないので、美和子も顎と上体だけをちょっと動かすようなお辞儀の仕方をして、席に着いた。

        三

 美和子が席に着くと、すぐ簡単な食事が運ばれた。
「これが、一番下の美和子でございます。」と圭子が先方へ紹介した。
「そうお。」
 相手の婦人は、鷹揚にうなずいて、やや険のある美しい眼で、ジッと美和子をみつめていたが、
「どなたも、それぞれ美しいわね。でも、この方が一番モダーンね。」といった。
 美和子は、相手が何人《なんぴと》か分らないので、ただニコニコ笑っていたが、その婦人の右の手の無名指に輝いている五キャラットはありそうな燦爛《さんらん》たるダイヤに驚いて目を刮《みは》っていると、パンを取り上げた左の手にも、同じくらいの石が光っているのを見つけて、(アッ)という叫び声を、口の中で、やっと噛み殺したのであった。
 男なら、誰の懐《ふところ》にでも、たちまち飛び込んで行く美和子だったが、女となると割合、好き嫌いが、ハッキリしていて、最初の一瞥《いちべつ》から、美和子はこの婦人が、あまり好きでなかった。
 食事が終りかけた時、姉の圭子は、以前からの話の続きらしく、
「私が、ご案内してもよろしいんですが、開幕前で、何となく落着けませんし、妹ならもう行きつけているんですから。」といって、相手の婦人が、うなずくと、今度は傍らの美和子に、
「ねえ、美和ちゃん、この方、私の芝居を後援して下さっている方で、新子ちゃんとも懇意にしていらっしゃる方なの。新子ちゃんに、会いたいとおっしゃるから、貴女バー・スワンへ案内してあげてくれないこと?」
「どなた?」美和子は、さすがに、相手の名前を訊ねた。
「前川さんの奥さま。」圭子は、さりげなく返事をした。
「まあ。そうお。」と、美
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