に上っている。その上、店が安定するまでの費用という名目で、開店当時、前川から三百円ばかり貰った。
 新子も、草履を買ったり、好みの帯止めを買ったり、ドロンウォークの麻のハンカチーフを、半ダース買ったり、実用というのではない、形のピチリとした足袋《たび》を買ってみたり、そうした消費は、女性にとっては不思議な魅力を持った快楽である。
 このような状態では、激しい恋慕もなく、媚《こ》びる気持もなしに、こうした生活を与えてくれた前川の愛撫を待つことになるであろう。現に昨夜は、恋愛に近い情熱で、前川の愛撫を待った自分ではないか。このまま進めば、結局自分のすべてを与えて、一茎の日かげの花、パトロンと愛人との関係に、青春の日を棄《す》てて行くのではあるまいか。
 新子は音楽を聴いているうちに、だんだん気が沈んで来て、出ばな[#「ばな」に傍点]のお茶の味さえ消えていた。
 二階から、この頃連夜の稽古で夜更しをしている姉が、だらしない寝衣《ねまき》姿で降りて来て、新子と向い合いに、
「あ――あ。」と、欠伸《あくび》しながら、ドサリと坐った。

        二

「昨夜《ゆうべ》は、私より遅かったわねえ。」新子は、自分も慰められたいような気持で、姉にやさしくいった。
「うん。昨夜は、ほかの人の都合で十時から稽古だったの。切符は売らなきゃならないし、たいへんよ。」姉は、新子の気持などお構いなしに、自分のことだけを云って、
「美和子居ないかしら。」と、訊ねた。
「知らない……ちょっと、出かけたんじゃない。」
「煙草が欲しいんだけど……」
「婆やに、買いにやらせば、いいじゃないの……」と、新子が云うと、煙草のことは、それぎりにして、
「美和子、もう酒場のお手伝いはしないんだって……」と、訊いた。
「もう、そんなことお姉さんに云ったの?」昨夜のいさかいを、早くも姉に告げたのかと思うと、新子は美和子の口の軽さに、腹が立って来た。
「昨夜、私が帰ったら、まだあの子寝てないで、階下《した》でガヤガヤ云っていたの……」
「そうお、ちっとも知らなかったわ。」
「私、美和子から、貴女《あなた》の酒場のこと、いろいろ訊いたわ、美和子のところへ来るお客も、随分あるんだってねえ。」
「………」新子は、不愉快になって、だまっていた。
「それに、新子ちゃん。貴女、少し嘘つきねえ。」
「なぜ……」
「前川さんの関係している酒場に勤めているなんて、本当は、前川さんが貴女のために作ってくれたお店だっていうじゃないの?」
「………」新子はびっくりして姉の顔を見上げた。
「かくされると、いい気持はしないわよ。」
「何を云っているの。美和子のような子供に、何が分るもんですか。」
「あの子は、あれで子供じゃないわよ、そんなことにかけちゃ私達より、ずーっとカンがいいんですもの。私、美和子の云ったことを信ずるわ。」
「だって……あの店、誰のものだか私知らないわ。ただ、前川さんが、経営しろとおっしゃるから私引き受けているだけよ。私、勤めているつもりだわ。」
「だって、貴女のお部屋はあるし、電話はあるし、立派なものだと云うじゃないの。私、小池さんなんかを連れて行ってもいい?」
「どうぞ。いらしって頂戴! 歓待するわ。」新子も、騎虎《きこ》の勢い、やや棄鉢《すてばち》気味にいった。
「今度の公演のポスターが、昨日《きのう》出来たからお店にかけておいて頂戴よ。それから、お客さんに切符売れないかしら。ねえ、三十枚くらい売ってくれない。」圭子は、薄情そうな顔付で、そう云った。
「ええ。」新子は、憮然たる表情で、味気ない返事をした。すると、圭子はいきなりニヤニヤしながら、
「一体、貴女と、前川さんとどういう関係なの?」と、訊いた。

        三

 姉の露骨な端的な問いに、新子もグッと詰まったが、あわててはならないと、胸を落ちつけて、
「何だって、そんなことお訊きになるの?」と、訊き返した。
「だって、前川さんの貴女に対する親切なんて、度に過ぎていると思うわ。」
「だって、初対面のお姉さんだって、度に過ぎた後援をして下さる方だもの。」新子も、負けずにやり返した。
「それもあるわねえ。」と、圭子は、素直に肯《うなず》いてから、「でも、美和子の話では、前川さんは二階の貴女の部屋へ上って行って、一時間も二時間も、話し込むというじゃないの。だから、私心配になって訊いたのよ。」
 またしても、ひどい美和子の告げ口に、新子はカッと上気しながら、
「だって、そりゃお店の経営や、売上げや何かの話だってあるじゃないの。」と、答えたが、新子は口惜《くや》しさで、涙が出そうだった。
「そう、それならいいわ。私だって、貴女が世の中にあるように、前川さんを卑しい意味でパトロンにしているとは、考えたくないの。そんなことをすると、前川さんの奥さんにだってすまないと思うわ。」
「………」
 決して快くは思ってはいない、前川夫人まで引合に出しての、無慈悲な姉の非難に、新子は胸がつまって、口がきけなかった。すると、圭子はニヤニヤして、
「でも、何の関係もなしに、やっているとしたら、貴女も相当なもんね。私は、頼もしい妹を持って心強いわ。」と、云った。
「どういう意味なの。お姉さま、それは?」新子は、聞き捨てならぬ気がして、訊き返した。
「どうって……。もし、そうなら、凄いじゃないの。つまり、前川さんをこうだもの。」
 と、笑いながら、お手玉を取るような手付をして見せた。
 新子は、ムカムカしながら、
「お姉さん、貴女、そんな気持で、私のすることを見てらっしゃるの?」と激しい眼付で、姉をにらんだ。
「だって、そうじゃないの。身体を許さないで、相手にあれだけのことをさせているのは、すごいじゃないの。私になんか、とても出来ないわ。」
「お姉さんの馬鹿!」新子は、とうとうかんしゃく[#「かんしゃく」に傍点]を起して、姉を怒鳴りつけた。
「あら! よく知っているわねえ。私は、どうせ馬鹿よ。新子ちゃんは、利口者よ。おほほほほ。」と、さも可笑《おか》しそうに笑い出した。
「お姉さんが、もう少し家のことをかまって下さったら、私酒場なんかに出はしませんよ。」と、新子はつづけて怒鳴った。
「悪かったわねえ。でも、私は劇のほか、何にも分らないの。ご免なさい!」
 そう云うと、姉は新子の鋭鋒を避けるように、トントン二階へ逃げ上った。

        四

 姉と争った後味の悪い気持で、お店へ来ると、女給の一人の妙子という、チンマリと可愛い顔の少女が、豊かな黒髪を、プツリと切って、すっかり見違えるような後姿《うしろすがた》で、水盤の水を入れかえているので、新子は驚いて、
「まあ。勿体ない」と、眼を刮《みは》って近づくと、すっかり化粧も変えた顔で、
「だって、この方が便利なんですもの。」と、羞《はに》かみながらいった。
「似合うからいいわ。」
 なかなか、女学生らしい溌剌《はつらつ》たる味わいが出て、よく似合っていた。
 そんなことで、新子の気もまぎれ、部屋へちょっと上るとすぐ階下《した》へ降りて来て、少女達と話をした後、よし子のトランプを借りて、一人隅の方の卓子《テーブル》で、ペーシェンスで、その日の運勢を占い始めた。
 こんな水商売を始めてみると、新子もいつの間にか、御幣《ごへい》かつぎになっていた。自分が六白星だから、七赤、八白、二黒《じこく》の日は吉で九紫、三碧、四緑《しろく》の日は凶であるなどと、朝刊の九星を気にしたり、カードのペーシェンスが、一度でパッと揃えば、吉。そろっても、スペードからでは凶、揃わないときは大凶などと、独りでその日の客足を占ってみる習慣が、ついていた。
 トランプは、幸先よく揃いそうであったが、中途でつまって、結局うまく行かなかった。
 もう一度と、思い切り悪く、カードをまぜていると、
「いらっしゃいまし――」と、いうよし子の挨拶を聞いて、新子は何と云うことなしに、立ち上って、衝立《スクリーン》の陰にちょっと身を隠して、客の方を見た。
 客は、たった一人でてれくさそうに、部屋の中を見廻して、なかなか席に着こうとはしない。
「君達二人ぎり?」と、少女達に、話しかけるその声で、新子はハッとなった。軽井沢で、前川夫人の遊び友達として、知り合った木賀子爵ではないか。客が、もう一足進めば、すぐ顔を見られる衝立の陰なので、新子は急に悪寒《おかん》が、胸に上って来た。
「落着いたいい酒場だな。」
 客は、無遠慮に、部屋中を見廻しているので、少女達も、モジモジしているばかりである。
 相手は、前川とは、それほど懇意でなく、夫人の親しい友達であってみれば、顔を見られぬに越したことがないと思い、木賀が、やっと席につき、煙草を取り出して、うつむいたわずかな隙にサッと衝立の陰をのがれ、バー・スタンドの脇をくぐって、二階の居間に駈け上った。
 しかし間もなく、よし子が二階へ追ってきて、
「ねえ、あの方マダムをご存じの方らしいの。会いたいとおっしゃるのよ。」と、扉口に来て呼んだ。

        五

 木賀などには、今の場合一番来てもらいたくなかった。いっそ頑張って、会うまいかと思ったが、もし偶然来たものだとすれば、会わない方がかえって前川夫人にすぐ注進されることになりそうなので、新子は胸をとどろかし、顔を赤くしながら、やっと階下《した》へ降りて来た。
「やア、しばらく。」木賀は、案外気がるに、やさしい調子で挨拶をした。
「しばらく、どなたにお聞きになりましたの?」と、新子はさし向いに、腰をおろしながら、探るように尋ねた。
「いや、だれにも聞きやしません。」木賀は愉快そうに、首を振った。
「じゃ、私がここにいること、どうしてお知りになりましたの。」と、重ねて訊ねると、
「そりゃア知れますよ。」と、木賀は事もなげだった。
「でも……」と、不安そうな表情を、正直にさらけ出すと、
「こんなところで、新しい酒場《バー》を出せば、すぐ僕に分りますよ。」
「だって、私が居りますのが……」
「そりゃ、僕の六感。」と、木賀は、いよいよ事もなげに笑った。新子も笑いながら、
「こわい六感ですわねえ。私、貴君《あなた》がはいっていらしったのを見てびっくりしましたの。」と、受けながら、新子の気持はやや落着いた。
「いくら、びっくりしても、あんなに颯爽《さっそう》と、お逃げにならなくっても、いいじゃありませんか。あれで、貴女だということが、いよいよ分った……」
「まあ、颯爽と……」妙な比喩《ひゆ》に新子も笑った。
「貴女が、銀座に出たという噂だけは、聞いたんですよ。それ以来貴女を探していたのですよ。でも、ここだろうと睨《にら》んだのは、僕の直感だったのですよ。」
「私が、銀座に出ているなんて噂、どなたから、お聞きになりましたの……」新子は、また不安になった。
「それは、貴女の六感に委せる。多分、当る!」
「まあ!」
(前川さんにですか、それとも奥さんからですか)と、訊き返そうとしたが、それは相手が前川と自分の関係を知らない場合は、藪蛇になるので、新子は咽喉《のど》まで出た言葉を、噛み殺した。
「とにかく、貴女が酒場《バー》のマダムになったのは、大賛成だ。ロマンチックで、いいですな。僕は、軽井沢で、貴女と話をした味が、忘れられないんですよ。――カクテル、辛いのをね。一つ、貴女のとこのバーテンダーの腕前を拝見しましょう。」
 木賀は、新子の心の一抹の不安を外《よそ》に、他意なく微笑んだ。
 新子も、ひやっとした気持が、まだ胸には残っているものの、とにかく闊達《かったつ》な若者に対する自然な気安さで、立ち上ってバーテンダーのところへ行った。

        六

 銀盆に落花生とカクテルとを載せて、運んで行くと、
「貴女は?」と、問われて、
「いけないんですの。」と、云うと、
「そりゃ、つまんない!」と、云いながらも、酒ずきらしく、唇を細めて盃を嘗《な》めるように、
「こりゃ、相当なもんですな。こんないいバーテンを、どこでお見つけになったんですか。店の装飾と云い
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