平かな調子で、
「どこで召し上っていらしったの……」と、訊ねた。
「うむ。ちょっと、お客したもんだから……」
「へえー珍しいのね。」
夫人は彼の鼻の先で、馬鹿にしたように、笑った。前川は、角に触れられた蝸牛《かたつむり》のように、有頂天の気持から、たちまち身を縮めて、スワンのマッチなぞ、どこへも入れて来なかったかと、改めてズボンのポケットに、手をしのばせた。
「踊りの会、面白かった?」
「面白いはずがないじゃありませんか。」
夫人は、冷たい返事をしなから、共に階段を上って来た。
前川は、一段ずつ、冷《ひや》しさまされて行く夢心地であった。
七
階段を上り切ると、夫婦の部屋の分岐点である。
夫人の部屋は左へ、前川の書斎、居間、寝室は、右へぐるりと建物を廻るような配置になっている。前川は、さりげなく夫人の顔を見ながら、
「眠い!」と、いった。そして、すぐ続けて、
「おやすみ!」と、別れの会釈をした。すると、夫人はその手を喰わず、ニヤニヤ笑いながら、
「お待ちなさいませ。少しお話がしたいわ。」と、いって右へ前川に、ついて来た。
「眠いし、疲れているし……、話なら明日にして……」と、逃げようとすると、
「厭よ。用事の話じゃないんですもの。貴君ったら、いつでも私が話をしようとすると、鹿爪らしくお取りになるけれど、たまには無駄話だってしたいわ。私眠くないんですもの。眠れそうにもないし、少しの間、話し相手になって下さるご親切が、あってもいいと思うわ。」
「だって、遅いよ。もう十二時過ぎてるし……」
「それは、貴君が遅くお帰りになるからいけないのよ。意地悪ね。」
そんなことをいいながら、夫人は執拗な態度で、前川の寝室へまで、はいって来た。
前川は、内心薄気味わるく思いながら、ソファにかけた夫人に背を向けて、ネクタイを解き始めた。
「ねえ。」
「………」
「下世話に云うでしょう。ほら、四十を過ぎて始まった道楽は、なかなか止まないって! 心配だわ、私……」
変に、女房らしいことを云い出されて、前川は思わず、クスリと、唇辺《くちびるへん》に笑いを浮べて、
「何を話し出すかと思えば、そんなつまらんことを。ふざけているのかい!」と、砕けて訊いた。
「いいえ、真面目よ。だって、この頃お酒は召し上るし、それに以前よりお帰りが幾らかずつ遅いし……それに、何だか私の眼にさえ、急に若々しくお成りになったように映るんですもの……いい加減、気になってしまうわ。貴君、何かお出来になったんじゃない?」
前川は、首筋に、氷片を落されたような気持ながら、しかし色には出さず、
「おかしなことを云うね。何か出来たって、何が……」と、とぼけて訊き返すと、
「愛人か……そんなものよ。」前川は、ドキッとして黙ってしまった。しかし、夫人はさる[#「さる」に傍点]者、ニヤニヤ笑いながら、
「ねえ……」と、眼顔で押して来た。
八
前川は、急所を突かれながらも、それが夫人の臆測にすぎないと知ると、ホッと安心して、
「そんな冗談にも洒落《しゃれ》にもならないことを云うものじゃありませんよ。そんなことを云えば、貴女だって、この頃は頓《とみ》に、美しく若々しいじゃありませんか。」
「嘘おっしゃい」
酒の下地で、常よりは、やや図々しい前川に、夫人はちょっと業腹《ごうはら》で、ヒステリックに、その話を打ち切って、別の手を考えていた。
習慣で、どんなに遅くっても、就床前に必ず歯を磨く前川が、室内の奥についている洗面所《ウォッシュ・スタンド》の方へ歩いて行く後姿《うしろすがた》に、
「ねえ、冗談は冗談として、ちょっとご相談したいことがあるの家庭教師のことで……」と、云いさして、夫人は、良人の背中でちょっと舌を出してから、追いかけて行った。
四方白い、小さいタイル張りの部屋の中で、前川は黙っていた。夫人は、入口からのぞき込みながら、
「ねえ……」と、押しかけた。
「二学期が、はじまってから、もうよっぽどになるでしょう。やはり、家で勉強見てやった方がいいらしいんですの。それでいろいろ探しているんですけれど、適当の人が、なかなかないのよ。貴君、なんかお心当りないこと?」
前川は夫人のために、その小さい部屋に閉じ寵められたような、気味の悪い感じで歯ブラシの音と水音とで、返事の出来ないことを示していた。
「ねえ、なぜ黙っていらっしゃるの?」と、夫人は跣足《すあし》で、二、三歩はいって、良人の顔をわざわざのぞきに来て、
「ああ、口を磨いていらっしゃるのね。じゃ、お待ちするわ。真面目に、ご相談したいことがあるのよ。」と、云いながら、また入口の方に、引き返したが、前川がブラシを使い終るのを待って、
「ねえ、新子さん!」と、いきなり云った。
「ええっ!」前川が、スワ事こそと、あわてて訊き返すと、夫人は、良人の顔を、ジロジロ見ながら、言葉はあくまで、尋常に、
「どう、私、新子さんにもう一度、家へ来てもらおうかと思っているの……」と、云った。
「家へ、もう一度!」意外な言葉に、前川は、鏡に映るわが顔へ、思わず声を出して呟いた。
「ほら、あの南條さん。貴君も、随分ごひいきであったじゃないの。」夫人の声は、浮々とはずんでいた。
「しかし、あの人をなぜ呼び戻すのだ!」前川は、全く夫人に、飜弄《ほんろう》されている形だった。
九
「だってねえ。」夫人の声は、極めて柔かな響きを持っていた。「私、随分探したんだけど、結局南條さんくらい、いい人ないと思うんですもの。」
前川は、夫人の表情を読みたくなり、思わず洗面所《トイレット》から、身を出しかけた。が、また思い直して、手先をゴシゴシと洗い始めた。
「それに、子供達も、時々思い出して、淋しがっているようですし、貴君さえよければ、私、明日にでも手紙を出して、あの人に来てもらいたいの。貴君、宿所ご存じでしょう、貴君がご存じなけりゃ、路子さんに訊いてもいいの。」
前川は、夫人の一言一言に、誘導訊問をする刑事の心理のように、意地のわるい計略が、かくされているように思われ、これは一問一答と云えども、油断をしてはならないと思った。
新子の現在を知ってか知らずにか、自分と新子との関係を、嗅ぎつけているのかいないのか……前川は、酒の酔もすっかり吹き飛ばされて、酔ざめの後の常より一倍冴える頭の中で、彼も夫人の心中を計るべく、作戦を考えねばならなかった。
「ねえ、貴君もご異議ないでしょう。あの人に、もう一度来てもらうこと……」
(本気で云ってるのかな)と、前川もつい思った。しかし、つねに肚と口との違う、しっかりもの[#「もの」に傍点]の夫人である。彼は、少し苛立たしくなって来た。
「ねえ。」夫人は、しつこくくり返した。
「僕は、不賛成だね。」前川は、とにかく受け返した。
「あら、どうして……貴君、前には随分ごひいき[#「ひいき」に傍点]じゃなかったの……」
「………」前川は、返事に窮して、また手を洗った。
「ねえ、いつまで顔や手を洗っていらっしゃるの……」
「うむ。」冷静を装っているつもりでも、つい取り乱したと、前川は後悔しながら、さりげなく、彼としては幾分|傲然《ごうぜん》たる態度で、トイレットから出て来た。
「ねえ。あの人に来てもらいたいわ。手紙を出しても、いいでしょう。」
「一度、よしてもらった人に、また来てもらうなんて、可笑《おか》しいじゃないか。それよりも、高等師範の学生か何かで、適当な人は、いくらでもあるだろう……」前川は、一語一語に気をつけ、芝居の台詞《せりふ》でもいうように、静かに云いながら、夫人の眼を探るように、ひたと視線を合わした。
「だから、よさせたのは、私軽率だったんだから、私あの方と会って、潔《いさぎよ》く謝ってもいいのよ。でも、可笑しいわねえ、貴女が反対をなさるとは、おほほほほほ。」
夫人は、前川の窮状を知っているかのように、気持よげに笑った。
十
前川は、笑う夫人の眼の中に、邪悪な喜びの影を見たように思った。何か新子について聞込んだに違いないと思うと、今宵くちづけの感激も消えはてて、当惑せずにはいられなかった。
「でもあの方、まだ職業が見つからないで、お困りになっているのじゃないかしら……もしそうだと私、いよいよ呼び返してあげたいの……」夫人は、まことしやかに、眼を輝かした。前川は、容易に動かされず、
「僕はとにかく賛成しない。他の人を雇った方がいい。」と、藪蛇《やぶへび》にならないように簡単にいった。
「でもなぜ新子さんを、もう一度呼んだらいけないの?」
「そんなハッキリした理由はないさ。あるはずがないじゃないか、しかも一度、貴女と感情の衝突をした人を……」
「だって、それは私が悪いと思うから、謝るつもりなの……」
「しかし、謝ってもらって、来たところが、あの人もいい気持はしないだろうし、貴女だって、きっと何となくそれに拘泥《こだわ》るだろうし……」
「貴君妙だわ。とても、妙だわ。貴君が反対なさるなんて妙だわ。」夫人は、前川の鼻の先で、チラチラ笑いながら、つぶやくように云った。
妙だと云われれば、妙に違いないだろうと思うと、前川はいよいよ不愉快になってだまってしまった。それにしても、片足をあげれば、その片足に、他の足を挙げれば、その足に、とりもち[#「とりもち」に傍点]のようにくっついて来て人を窮地に陥れて喜ぶような夫人の性癖を、今更のように、憎々しく感ぜずにはいられなかった。
「じゃ、私路子さんと、相談して、とにかく、新子さんの内意を訊いてもらうわ。向うで、来たいといえば、貴君だってご異存はないんでしょう……」
「およしなさい!」前川は、つい苛々《いらいら》して来て、いつになく険しい声を出した。
「まあ! そんなにまで、反対していらっしゃるの。ああ分ったわ。じゃ新子さんが来ると、貴君の方で何かお差支えがおありになるの?」
「そんなものが、あるわけはないじゃないか。」前川は、あわてて打ち消した。
夫人は、先刻から前川のあらゆる表情動作を、すっかり読み取って、まず今宵はこれでいい、あまりしつこく責めると、かえって前川に警戒されるに違いないと思ったので、口まで出かかった小切手帳の問題は、そのままにして、
「そう。じゃ、私もう一度考え直してみるわ。でも、新子さんという人、後で考えるとだんだんよくなるわ。」前川には、全く謎の言葉を残して、アッサリ部屋を出て行った。
[#改ページ]
敵か味方か
一
今まで、家中《うちじゅう》で婆やの次に、起きていた新子が、夜更《よふか》し続きで、つい寝坊になり、この頃では十一時過ぎまで、寝てしまっても、なお頭の重い感じである。
女らしい始末の悪い母親と、だらしのない圭子と美和子と、それに肝心の新子までが寝坊をすると、家の中は常に雑然としている。新子も、十二時近くに起きたのでは、朝食がひどく不味《まず》い。味気ない気持で、食卓で朝刊をひろげると、ラジオの昼間演芸が、今日は新協の放送である。新子は、時計を見上げながら、スイッチを入れた。ベートーヴェンの第五シンフォニイが、たちまち家中に、溢れ出した。
美沢の家でも、よくレコードで聞いた馴染の曲だし、しかも渾然たる絃楽の、その中の一挺のヴァイオリンは、美沢の手で奏でられていると思うと、新子は、ジッと放心したように、聴き入っていた。
十月の半ばで、美沢がこの頃になると、いつも神経衰弱になる季節だといって、厭がっていたのを思い出した。
(今年は、私を清算して美和子も、清算なすったようだから、かえって激しい生彩で、芸術に精進していらっしゃるだろうが、私は……)と、考えながら、新子は何か恥しさで、身内が熱くなった。
大恩は謝せず――新子は今のようになってしまっては、前川に礼をいうことさえも、空々しいほど、世話になり過ぎ、新しい好意を辞退するのが可笑《おか》しいほど馴れてしまっている。酒場は成功して、一夜の売上げが少い時で、五十円、多ければ百円
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